借金のカタに取られました
日曜日の朝、インターホンが遠くで鳴っている。
横を見ると航平はスヤスヤと眠っている。仕方なく玄関に行き、フロントが映るモニターを確認するとカズさんが立っていた。
「おはようございます」
「カズさん、鍵持っていますよね?」と不思議に思い確認すると
「持っています。でも今日は日曜日ですよ。いきなり開けるようなそんな野暮な事しませんよ」うふふと笑いな
がら言った。
ロックを解除すると、しばらくしてカズさんは部屋へやってきた。
「今日は航平さんに頼まれて、千那さんに清掃の仕方を教えてやるようにと言われております」
昨日の間に予定を教えてくれればちゃんと起きているのに、全く。
「航平さんは、寝ている時は大きな音を立てても起きませんので大丈夫ですよ」と長年の付き合いをしている者にしかわからない台詞を言って嬉しそうに笑う。
カズさんの清掃は完璧過ぎてなかなか疲れる。そこまでするかって程で年末の大掃除かと思うほどに細かくて辟易した。しかし、その分ピカピカになり気分が良くなる。
実家ではゴミ屋敷のまま過ごしていたし、綺麗な部屋というものは心も綺麗にするものなのだと初めて実感した。
その後、朝食の準備をしていると航平が起きてくる。
「あ、カズさん、おはようございます」
「航平さん、おはようございます」と何十年交わしてきただろう会話を聞きながらどこか羨ましく思った。
千那の家庭には挨拶というものは存在しなかった。千那が学校へ行こうが帰ってこようが無関心で、食事の際にも、コンビニの方角へ向かって
「頂きます」と言いたかった位だ。
何気ない家庭の雰囲気に心が温まるのを感じていた。
朝食を終えるとカズさんは
「また月曜日」と言い残し帰って行った。
カズさんが扉を閉めると同時に
「出掛けるぞ」と航平に言われて慌ててついていく。
航平が選んだ服しか入っていないクローゼットのため、何を選んでも文句は言われないだろう。
彼好みに自動的になってしまうからだ。
今まで着ていた洋服とは毛色が違うため戸惑うが、女性らしい服に少し満足もしていた。
ある建物に到着すると千那を車から降ろして
「終わる頃に迎えに来るから」と言い残し車は走り去った。
いつも強引だし何も教えくれない。
仕方なく建物に入ると
《マナー講習こちら》という看板に目がいく。
「これか」と諦めの境地でドアを開ける。
もしかしてデートに行くのかと期待した自分が馬鹿だった。
そこには数人の女性が居てテキストらしきものを広げて、講習が始まるのを待っているようだった。
席につくと、講師のアシスタントであろう人からテキストを渡される。
前のホワイトボードには、本日のスケジュールがびっしりと書かれていた。
ビジネスマナー、会食のマナー、パーティーでのマナー、結婚式、お葬式でのマナー等々。
めまいを感じながら黙って講習を受ける。
ビジネスに関しての講習は退屈だったが、結婚式やお葬式のマナーは千那も経験不足の為、知らないことが多く、知っていればこの先恥をかかなくても済むと思うと、講師の言葉も耳に入ってきた。
昼食の時間に合わせてテーブルマナーがあり、美味しいフルコースを頂くことが出来て少し舞い上がった。
外食すらしたことないのに、フルコースなんて人生で初体験だ。
綺麗な料理が白い皿にのせられて、食材の色が余計に引き立って美しい。
一緒に講習を受けている生徒は、大人の女性という感じできっと自分は一番年下だろう。婚活なのか花嫁修業なのかわからないが、こんな講習を受ける人がいるのだと不思議に感じる。
実家にいて普通に生きていれば、自分の人生には必要のないことばかりだ。
コース料理を食べに行くこともないだろうし、ビジネスマナーも必要ない。結婚式とお葬式の最低限のマナーだけで他のことは無駄に思えたが、ここにいる世界の人にとっては日常的に必要なのかも知れない。
たまたま生まれる環境によって、その後の人生は大きく変わるのだなと悲しい気持ちになった。
全ての講習が終わる頃、外は暗くなっていた。
相変わらず、終わる時間に航平が車で待ちかまえていた。
車に乗り込むと、いつものように会話もなく車は走り出した。
家に直行かと思っていたが、違う道を走っているようだ。
もう事前に何も言わないのがわかっているので、わざわざ聞くのも無駄な気がして黙っている。
地下駐車場に入り車を停めると
「降りろ」と命令口調で言われる。
車から降りて、少しお洒落な格好をしている航平の後ろをついて歩く。
高級ホテルのロビーを横切り、奥にあるフランス料理店へ慣れた様子で入ってき、戸惑っている千那を尻目に店員と言葉を交わすと、窓際の席に案内された。
店内には眩しいほどのキラキラしたシャンデリアがぶら下がり、華やかな柄の壁紙に重厚感のあるテーブルや椅子に興奮しながら席につく。
「今日、テーブルマナー、学んできたんだよな。じっくり見させて貰う」とにやりと笑う。
「うっ、そうきたか」小さな声で呟く。
「え?」と聞き返され
「何もありません」と即座に答えた。
長身の店員さんからメニューを渡され、恐る恐る開けると値段が書いていない。
どうしてと思いながら眺めていると
「あのさ、多くのフランス料理店は、女性に渡すメニュー表には値段が書いてないもんだよ。俺の方には書いてあるから不思議な顔するな。間抜けだぞ。顔が」
こんな所、来たことないのだから仕方ないじゃない。間抜けな顔って失礼な。
カズさんが言っていたように、本当に人を見透かしているのだから気が抜けない。
航平は、事も無げにスラスラとメニューを見ながら注文し、自分はワイン、千那にはソフトドリンクをオーダーし、店員がそれらを持ってくると乾杯した。
テーブルに並べられた数々のフォークやスプーンを確認しながら、さっき教わった順番を思い出す。
確か外側から使えばいいはず。
料理が運ばれ緊張しながら口に運ぶ。航平はニヤニヤしながらその様子を見ている。
「航平、趣味悪いです」
「何言ってるんだよ。復習さしてやってんのに」と嬉しそうにこちらを見ている。
昼間に食べたフルコースは充分味わって食べたのに、こんなに目の前で見学されると、味わっている余裕がない。
余裕がないのに、こんなに美味しいと感じるということは、相当なものだ。
やっとフルコースを食べ終えて、デザートまで辿り着くと千那はホッとした。
「ま、合格だな」と頭を撫でられる。
馬鹿にされたようで腹が立ったが、頭を撫でられる感触は嫌ではなかった。
よく少女漫画に出てくるシチュエーションで、一度されてみたかったからだ。
そして、初めての大人のデートにワクワクした自分がいた。
綺麗な指を、デザートのコーヒーカップの持ち手に絡ませ、飲みながら聞く。
「どうして、色んな事を学ぶかわかるか?」
「えーと……」と言葉に詰まっていると
「知らないことは、何も恥ずかしいことではない。知ろうとしないことが、恥ずかしいのだ。知っていて損をす
ることはない。いつ、何が役に立つかわからない。吸収できるものは、何でもやっておけ。勉強もだ。お前は、諦めるのが身に付いてしまっている。普通、無理矢理、親の借金の為に連れて行かれたら、抵抗するだろう? お前、すぐ諦めたよな。その癖はもうやめろ。これから色んな事を、お前には与え続けるつもりだ。諦めずにやるんだぞ」
こくりと頷いた。