イジワル御曹司に愛されています
沈黙ののち、あかねが慎重に言った。


「それ、本当にあの都筑なの?」


一周してしまった。


* * *


「千野(ちの)さん、ごめん! 急に別件が入っちゃったんだ、都筑さんとのアポ、ひとりで対応お願いできるかな」


はい、という返事が喉に張りついて出てこなかった。慌ただしく上着を着ながらフロアを出ていくところだった松原課長が、足を止めて振り返る。


「あれ、まずい?」

「いえっ、大丈夫です、いやっ、ちょっ、どう…ええとですね」

「どうしたの」


いつになく取り乱したせいで、目を丸くされてしまった。気を落ち着けてから「大丈夫です、承知しました」と改めて答えた。


「電話は出られるから。なにかあったら携帯にちょうだい」

「はい。お気をつけて」

「行ってきます」


女性社員にひそかに人気の、すらっとした姿が廊下へ消えていく。40代なかばの身体は引き締まっていて、いつもにこやかな顔はさっぱりと感じがいい。


「官庁からお呼び出しらしいよ」


隣の席の先輩が、そう情報をくれた。それは、アポより優先するのも仕方ない。

ここは環境エネルギー技術の研究・教育・普及を目的とした公益法人で、行政と縁が深い。省庁への出向者もいるし、その逆もいる。

私がいるのは、各種の講習会や研修会を運営する部署だ。

この法人の上部組織が制定している、業界従事者向けの資格を取得しようとする人たちに向けた講習会で、大学や研究所から著名な先生を呼んだりもする。ときには自分で講師も務める。

ふいにデスクの内線が、覚悟はいいかとばかりに鳴った。


「…二課、千野です」

『お疲れさまです、受付です。お約束のお客様がお見えです』

「ありがとうございます、すぐ行きます」


うう…。

しっかりしろ、と自分に言い聞かせながら、水平方向に広い二階建てのオフィスを、エントランスロビーへと急ぐ。
< 3 / 196 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop