世界が終わる音を聴いた

「もう、奥さんもいる身なんですから」
「菜々美はそんなことじゃ怒らないよ」
「会社の人に聞かれたらどうするんです?」
「どうにもならないよ?」

クスクスと笑う人畜無害なこの人をどうにかしてほしい。

「……それでも、変な噂でもたったら、多少なりとも嫌な気持ちになると思いますよ。いくら菜々美さんでも」
「そうかな?」
「そうですよ。いくら全部知ってるといったって、別物ですよ」
「うん。気を付けるよ」
「そうしてください」
「優しいね、千夜ちゃんは」
「ほらまた!」
「あ、ほんとだ。ま、今くらいは勘弁してよ。誰もいないし」

肩をすくめて、小さくおどける。
優しい、なんて……それは時に残酷な言葉になるんだということを知る。
そんな言葉を出されてしまえば私はやっぱりもう、どうすることもできない。
八方塞がりだ。
これ以上ここにいたって、不毛な会話を紡ぐだけだ、と思えば私は帰宅する算段を取る。
なんのことはない、じゃあ、と一言言えばそれで終了。
あとはそのまま自転車を漕ぐだけだ。
けれど、そんな私を再び大石さんは呼び止める。
18時前といっても日の長い今の時季はまだ空は明るい上に、アスファルトにこもった熱がしつこく付きまとう。
いい加減、汗も滲んでくる。
そうは思っても、結局は無視することなどできなくて、また向き合うことになるのだ。

「今週末、菜々美とお邪魔しても良いかな?陽菜子にお線香をあげに」

控えめな笑顔でそう告げる大石さんは、私の顔を窺う。

「……母に、伝えておきます。本当に大石さんは八方美人ですね」
「あー……、いや。うん、そういわれても仕方ないのかもな」

少なからず、しまった、と思ったけれど、一度口からこぼれた言葉は無かったことにはできなくて。
訂正するのもわざとらしくて、気まずくて口を閉ざしてしまった私に、大石さんは、困ったように笑う。
失敗したな。
当人にしかわからない事情があることは、私自身よく知っているじゃないか。
そして、大石さんが抱いている感情が同情なんかじゃないということも、よく知っているじゃないか。

「すみません」

謝罪の言葉は素直に口からこぼれた。

「いや、大丈夫。気にしないで。引き留めてごめんね、じゃあ、また明日」

そう言って今度は私が彼の背中を見送る。
やっぱりため息が出た。
胸につかえたこのモヤモヤは、夢を諦めたときのそれに似ていた。


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