忘れたはずの恋
大雨の中、帰宅したのは午後10時を過ぎていた。

「ただいま」

家の中はもう、薄暗かった。
早希子さんは真菜を寝かしつけて…自分も寝てしまったらしい。
リビングに入り、電気をつける。
静まり返った部屋。
この時が時々寂しいと思うけれど、でも唯一。
一人になれる時間だ。

シャツのボタンに手を掛けた時。
テーブルに置いたスマホが揺れる。
誰だろう?と思って見ると、藤野から。

- 雨の中、一人公園で座っている吉永さんを確保しました -

「はあ?」

時間休で帰ったのに?

- 夕方です。一度帰宅してから走りに行ったら見かけて、今、僕の家にいます -

リビングの掛け時計を見た。

もうすぐ午後10時半。

- 今日は僕の家で泊まることになりました -

「はああああ?」

思わず、声を上げる。

なぜ、なぜ泊まる???

僕の心臓がバクバク、音を立て始めた。
おかしい、仕事で追い詰められた時でもこんなに心臓は激しく動いてなかったぞー!!

「一偉、さっきから何やってるの?」

「うわわわわ!!」

いつの間にか後ろで早希子さんが立っていた。
あまりの驚き様に早希子さんは呆れ顔。

「もう、せっかく真菜、寝たんだから静かにしてね」

早希子さんはため息をつくとキッチンに向かう。

「はい…スミマセン」

一度、風呂にでも入ってリセットしよう。



「へええ、おもしろそー!!」

リセットして早希子さんが用意してくれた軽めの食事を頂きながら藤野からのメッセージを早希子さんに伝えると彼女は楽しそうに笑っていた。

「一線、越えるかしら?」

思わず、飲んでいたお茶を噴きそうになった。

「コホッ…。
さ、早希子さん、下品ですよそれ」

と言うと早希子さんは白い、冷ややかな目をこちらに向ける。

「どの口がそれを言うのかなあ~?」

僕は視線を逸らして黙々と食事を進める。

…いまだに、恨まれているのかなあ。

目を上げると意味深な笑みを浮かべたままこちらを見ているので箸を一旦置いた。

「藤野は…我慢すると思いますよ。…すごーく苦しいけれど」

早希子さん、口角更に上に上がりましたよ。

「じゃあ…19歳の藤野君に23歳の時の一偉サンは我慢比べに負けたのねえ」

僕は遠い昔話をする早希子さんを見ながらがっくりと頭を垂れた。

はいはい、そうです。

「そうですよー!!」

思わず声が大きくなり、早希子さんは口に人差し指を当てた。

「…スミマセン」

はあ…ここは僕の負けか。

「あの時、普通に早希子さんの手を離したらもう、二度とチャンスはないと思いましたし」

だから、逃がすものかと思って行動に出たのです。

「ただ、僕がそういう行動に出たのは早希子さんの態度もあるんですよ」

あ、ちょっとだけ、お返しをしよう。

「僕が握り締めた手を…振り払わなかったでしょ?最初こそは手に力が入っていたのに。
僕が早希子さんを見つめてもう一度、強く握ったら…早希子さんはすっと手の力を抜いたから。
僕はこれで大丈夫、と思ったんですよ。だから合意の上でしょ?」

早希子さん、何を思い出したのか知らないけれど、顔、真っ赤です。

「それに本気で早希子さんが僕の事を嫌なら、そこへたどり着くまでにたくさんの抵抗をしたと思いますしね。そうでしょ?早希子さん?」

真剣に早希子さんの目を見つめて言うと…早希子さんは年上とは思えないくらい、恥ずかしがって俯いている。

「早希子さん、僕の目をちゃんと見て貰えます?」

見て貰えないので僕は早希子さんの隣に座ってあの時と同じように手を握り締めた。

「…痛い、一偉」

「見てくれないから。僕は見に来ましたー」

と言って顔を覗き込んだら。
耳まで真っ赤な早希子さんが目をまん丸くして僕を見つめている。

「プッ!」

僕が吹き出してしまった。
早希子さん、大胆な発言をする割には…僕に対してはいつまでも、何て言ったらいいのか。

「その強引さに私はヤラれてしまったのよ」

顔を真っ赤にしながらそんな事を言うものだから、僕は完全に手を緩めてしまった。

「もう!!今でも恥ずかしいんだからね!!」

そう言って早希子さんは僕の手を振りほどいたかと思うと両手で僕の両頬を思いっきり抓っていた。

「…痛い」

「お返しよ」

その瞬間、テーブルのスマホが揺れて僕らは一時停戦となった。



さて、藤野。

今晩、どう過ごすんだろう?
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