忘れたはずの恋
「ここで逃げちゃダメですよ」

ピットに戻ると吉永さんが今にも投げそうにしていたので思わず腕を掴んだ。

「…逃げませんよ、トイレに行ってきます」

吉永さんの腕…いや、体が震えていた。
本当は、大好きなくせに。
二人とも…。

やがて藤野がマシンと共に戻ってきた。
周りの人に謝り倒して、トイレから戻ってきた吉永さんの元へ。

「結果を出せず、申し訳ありません」

開口一番がこれだった。
頭を深々と下げて、上げない。
吉永さんもどう返して良いのかわからない顔をしている。
やがて顔を上げた藤野はしっかりと吉永さんを見つめた。

「それと僕の変な賭けにお付き合いさせてすみません。
もう、二度とそんな事は言いません。
子供の戯れ言に一瞬でも振り向いて貰えた事は…」

藤野は一呼吸、間を開けた。

「僕、嬉しかったです。
だから頑張る事が出来たんですけど。
…一瞬、気が緩んでしまったんですね。
いけるって思ってしまった」

唇を噛みしめる藤野を見てると。
なんだかなあ、僕が忘れてしまった何かを思い出しそうなくらい、胸が苦しい。

「もう、こんなワガママは言いません。
吉永さんの事も追い掛けません。
職場では一人の部下として、今まで通り接して下さい」

藤野はくるっと向きを変えて吉永さんから遠ざかろうと歩き始める。


「…いいんですか?」

今にも泣き出しそうな吉永さんの隣に立つ。

「このままで良いはずがないでしょう?」

吉永さんは頷きながらポロポロと涙を流し始めた。

「後悔したくないならいい加減、自分の殻を破ってみてはどうです?
しないまま後悔するなら挑戦して後悔する方が絶対に良い」

どうか、お互い素直になって欲しい。
歳を重ねるに連れて忘れてしまう、自分の本当の声。
こんなところで大切な気持ちを失ってはいけないよ。

「藤野君!」

吉永さんのその声に藤野はゆっくりと振り返った。
その目はどこか冷ややかで。

遅かったか…。

心の中で舌打ちをした。

それでも吉永さんはグッと手を握りしめて藤野の隣に行った。

そして正面に向き直すと

「藤野君、ごめんなさい」

頭を下げたまま、動かない。

「えっ…?」

困惑した声が藤野から聞こえてようやく頭を上げたが、顔は俯いたまま。

「本当にごめんなさい。
無理な賭けをさせてしまった。
怪我は?」

吉永さん、藤野の顔を見て言いなよ。
藤野、苦笑い。

「大丈夫です。
ありがとうございます」

「そ…そう、それは良かった」

まだ顔を上げない。

「あ…あのね」

オドオドしている吉永さん。
藤野よりも年下に見えますよ。
隣の相馬課長は俯いたまま、笑ってます。
肩が揺れてるのが…嫌でもわかるんです。

「職場で一人の部下として、なんて見られない」

お!
やっと言えた?

「みんなと一緒には見られない。
無理、絶対に無理!」

吉永さんが顔を上げた時には藤野の目はまん丸。

「またここで藤野君が走るのを見たい。
ただの観客ではなく、特別な…関係でいたい」

よく言った!吉永さんっ!!

藤野は瞬き一つせず、吉永さんを見つめていたが。
やがて口を開いて発したのが。

「…賭けに負けました。
だから無理です」

お前は〜!
意地張りすぎ!
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