ダブルベッド・シンドローム
私は、意識をしっかりと持った。
気を抜けば、専務のこの、何てことはないことないんですよ、とでも言いたげな口調に流されて、この事実を物語でも語り聞かせてもらっているかのように、そんな風に過ぎていってしまいそうであった。
専務は何も悪くないのに、なぜここまで専務が、奥様のことを受け入れ、考えなくてはならないのか、そしてなぜ、社長も、奥様も、それに甘え、専務を一人ぼっちにさせたままでいるのか。
私は腹が立ってしかたがなかった。
「ごめんなさい、私、全然理解できません。専務はどうして、そんなお母さんを、自分を恨んでいる、とまで分かっている人を、守ろうとするんですか?」
私がその質問を投げ掛けた途端、彼は、かすかに、悲しげに目を細めた。
それはすぐに戻された。
「僕は、母が悲しむと分かっていることをしようというのは、最初から選択肢にありません。わざわざ守ろうという意思を持っているのではなく、それ以外の選択肢を避けているだけです。」
「でも、専務だって、高校生で親元を離れて、こうして一人で暮らすことが寂しくないわけないはずですよね。それは自分にとって不都合だということになりませんか。そしたら、お母さんの都合だからといって、それを優先させることないですよ。」
「寂しいと思ったことは、ないと思います。自分の不都合は、特に感じたことはありません。」
私は、質問をすればするほど、これまで専務が自己防衛のために鍛え上げてきた「鈍感」を、引っ張り出してしまっていた。
自分の本当の気持ちを押し込めることには、偽りの気持ちを口に出す、ということは大変有効であったはずだ。
「寂しいと思ったことはない」と口にするたび、専務は寂しさという感情に対して、鈍感になれたに違いない。
「専務。あの、それじゃあ最後に、もう一つだけ、聞いてもいいですか。」
「はい。」
「専務の本当のお母さんは、今どうしているんですか?」
「ああ、申し訳ないのですが、それは僕も知りません。」
「えっ」
「ある日突然、出ていってしまったものですから。申し訳ありません。」
何も申し訳なくなどないのだが、私はあまりに不遇な専務の家庭に、今度こそ何も言えなくなった。