ダブルベッド・シンドローム




─北山さんにこのことを話している間、彼女はまったく表情を変えなかったのだが、代わりに私は、あの日の桜さんと同じくらいに泣いていた。

彼女との約束を守らなかった後悔と、そしてあの日の自分の悔しさが甦ってきたこと、もちろんその涙であったのだが、私は藤沢桜さんの正体が分かったところで、もうひとつ、涙が出るほどに悲しい真実に気づいたのだ。

たしか慶一さんは母親について、こう言っていた。
『ある日突然、出ていってしまったものですから』

慶一さんは、藤沢桜さん、つまりは、自分の本当のお母さんが亡くなっていることを、知らないのである。

それに気づくまでは、ただ自分の愚かな過去と、それによって裏切ってしまった桜さんへの涙だったのだが、慶一さんの、今も本当はお母さんの影を追いかけている、彼の顔が浮かんだとたんに、その悲しみに対する涙に変わったのである。


「北山さん。・・・あの、北山さんは、どうしてあのとき、電話を取り次いで下さったんですか。許されてなかった、と言っていたのに。それに許されていないって、それは誰の許しですか。」

「社長のお母様よ。前の奥様について、私は藤沢桜という名前しか知らなかった。あとは旦那と子供を置いて突然出ていった、ということだけ。だから社長のお母様に、藤沢桜という人の連絡は、絶対に取り次いではいけないと、そう言い聞かされてきたから、それまでは、それに従っていたの。・・・もちろん、あの電話が来た日までは、彼女に関する連絡が来ることなんて一度もなかったけれどね。」

「・・・でも、それでも取り次いだのは、どうして・・・?」

「私は電話を受けたとき、そうすることが正しいと思ったのよ。彼女は、専務の母親だから。」


北山さんは、本当に慶一さんのことが好きなのだと、そのとき初めて掠れた声を出した彼女を見て、そう思ったのだ。

もうすぐ北山さんはいなくなる。

それでもやはり、彼女に、私は少しの憧れを、抱いたままなのだ。

私は今も、自分がどうすべきであったか、電話をせずにいたら彼女は幸せに死ねたのか、仮にそうしたとしてそれで社長の未来は変わったのか、自分は自分を許せたのか、それはいくら考えても答えが出ることがなく、ただ、桜さんを裏切ったことへの後悔のみに身を落としていた。

それを、北山さんのように冷静に、自分の考えに割り切ることなどできなかったのだ。


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