(A) of Hearts
「なにするんだ?」
「わたしの上司は芦沢です。前田さまではありません。おっしゃりたいことは、すべてお済みでしょうか?」
「……」
「それでは、これで失礼いたします」
立ち上がってくるりと体の向きを返れば、鼻がくっついてしまうほどすぐそこに人が立っていた。
「す、すみません!」
頭を下げ、顔を上げれば、ぶつかりそうになった人こそが芦沢さん。驚いたわたしは思わず息を飲み込んだ。
「おいヒロ。これお前、どうしてくれんだよ」
「お前が悪いんだろ」
「なんだそれ」
「濡れてもイケメンだぞ?」
「こんなのはじめてだ」
まだ鼻声で声もガラガラの専務を目の前にして、ぎゅうっと胸が締め付けられてしまう。
だって本当に来た。
「おい館野」
「——は、はい」
「頭下げて謝っとけ」
「……」
なんで。
「あんなのでも俺の友だちだぞ」
「おいおい待てヒロ。あんなのって、そんな言い方ないだろ」
「お前が大袈裟に騒ぐからだろ?」
「俺のどこが!」
「お前が心配することは、なにもないから安心しろ」
そして顔を覗き込んでくる芦沢さん。
「謝れ」
「——はい」
そしてわたしは振り返り、前田さんに向かって頭を下げた。
すると前田さんは返事の代わりに大きく溜息を吐き出す。
「じゃあな前田。とりあえず風邪引くなよ」
「お前にだけは言われたかない」
前田さんの言葉にふっと笑った芦沢さんは、足が地面にピッタリと張り付いて動けないわたしの手首を掴んで歩きはじめた。
こっそり息を吐き出していく。
だってこうでもしないと、心臓が勘違いしてドキドキしてしまうんだもん。ただ連行されているだけ。
「館野」
「は、はい」
急に話し掛けられたので笑えるほど声がひっくり返ってしまう。
「カッコよかったぞ」
「へ……?」
「水が綺麗に弧を描いてた」
あ、ああああ。
さっきのあれですか!
「あ、はい!」
「ぶ」
謝れといった芦沢さんだったけれど、そういって笑ってくれてホッとした。