テンポラリーラブ物語
 次の朝、氷室がいつものように店に出勤すると、やはりなゆみは誰よりも早く来ていた。

 片手に本を持ち、ぶつぶつと何かを唱えているしぐさをしている。

 氷室が近づくと、すぐに本を閉じ、この日も元気に「おはようございます」と挨拶をした。

 もちろん笑顔も添えて。

「おはよー、早いね。それに朝から元気なこと」

 氷室の言葉に特別返事はしなかったが、なゆみはそれしかできないからというようなはにかんだ照れ笑いになっていた。

 なゆみの手に持っていた本をちらりと見る。

 いちいち何かにつけて氷室は無意識になゆみを観察している。

「それ、英語の単語集だね」

「はい、少しでも単語を覚えないといけないので持ち歩いてます」

「ふーん、大変だね」

 何をどうこう言うつもりはなかったが、それが一番無難な受け答えだった。

「でも楽しいですから。今まで自分から勉強したいなんて思ったことなかったんです」

 しかしなゆみは嬉しそうに目を輝かせて答える。

 何かに打ち込んでいる情熱が感じられた。

 氷室はまた目を逸らしてしまった。

 決してそれは不快に思ったのではなく、自分の昔の姿に似た部分を見つけ、見続けるのが嫌だった。

 何もない空っぽの心の中で、虚しさがさらに濃くなる気分になるからだった。

 思い出すのを恐れてしまう。

 なゆみの一生懸命さに戸惑って、逃げてしまっていた。

 一回りも離れた、色気のない女の子なのに、氷室にはあまりにも眩し過ぎた。

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