テンポラリーラブ物語
 朝のまだ誰も居ない静かな店の中でなゆみと二人っきり。

 なゆみは静かにショーケースを拭いている。

 一つ一つじっくりと並んだ商品を観察しながら、置いてある場所を覚えようとしていた。

 前日は緊張で目に映っているだけで、どんな商品があるかまで気が回らなかったのだろう。

 二日目は少し落ち着いているように見えた。

 それともジンジャと前夜楽しく会話したことが元気の源になってるのだろうか。

 氷室はなゆみがジンジャと戯れる姿を思い出し、眉間に皺を寄せていた。

「あ、映画のチケットもあるんですね。安い。あの、ここにある商品は従業員も買っていいんでしょうか」

 突然のなゆみの質問に氷室はハッとする。

「えっ、ああ、もちろん買っていい。映画のチケットが欲しいのか」

「いえ、今はいいんです。そのうち何か欲しくなったら購入させて頂きます」

 自分の興味のあった商品を見つけた後、なゆみは面白そうに、自分が欲しいものはないか見ていた。

 氷室は、そのあどけないなゆみに気分が和み、傍に居るとなんだか安らいだ。

 なゆみの後姿を見つめつつ、棚の上にある箱を手にしようと伸ばしたときだった、それは意外に重くて、バランスを崩し落としてしまった。

 派手な音が響き、なゆみは驚いて振り返る。

「大丈夫ですか」

 中にはまっさらな伝票が一杯入っていた。

 それが箱からいくつか飛び出している。

 なゆみはすぐさま駆け寄り、こぼれた伝票を拾い集める。

 氷室も無様なところを見せた事に動揺しながら、慌てて伝票を拾っていた。

 お互いがその動作に気を取られている時、氷室はなゆみの手に偶然に触れてしまった。

 はっとしたのは氷室の方だった。

「あっ、ごめん」

 慌ててひっこめたが、なゆみは笑っていた。

「いえ、全然大丈夫です」

 なゆみの方が落ち着いて、何もなかったように伝票を箱に全て戻した。

 なゆみの手は指がほっそりと長く、また色も白く、まさに白魚のような手だった。

 全体的に色気はないが、その手だけは美しいと氷室は感じた。

 体勢を整えて、自分の失態を誤魔化すためにも氷室は主導権を握ろうと話しだした。

「指が長いけど、ピアノでも習っていたの?」

「えっ? アハハハハ。いやだ、昨日ミナさんもね、背が高いけどバレーボールでもしてたのって質問されたんです。みなさん、色々と想像して下さるけど、 私、ピアノも習ったことないし、バレーボールの選手でもなかったです」

 そういえば、なゆみは女性にしてはある程度背があった。

 それで前日ジンジャと呼ばれた男が小さく見えた訳だと、またあの男の影が一瞬ちらついた。

 氷室が箱を棚上に戻そうとすると、なゆみがさりげなく手を添えて手伝った。

 なゆみをまじかに見つめた。

 気さくで、明るく、まっすぐな潔さ。

 まるで穢れのないまっ白い無垢のものを見ているようだった。

 氷室は鼻から息を吸い込む。

 白い花を目の前にして匂いを嗅ぎたいと思う、そんな衝動に駆られたからだった。

 しかしなゆみからは何も匂わない。

 もう少し柔らかな匂いがあってもよさそうなのに、とどこかがっかりした自分がいた。

 自分でも何を期待しているのだろうと、少し自己嫌悪に陥った。

 やがて、がやがやとした話し声が、シャッターの向こうから次第に近づいてくるのに気が付いた。

 ミナと紀子、そして普段昼過ぎに出勤する純貴もこの日は珍しく朝早く現れ、狭いシャッターの隙間を掻い潜って、次々とみんなが入って来た。

 なゆみは飼い主を待っていた犬のように、彼らに向かって元気に挨拶をする。

「おはようございます」

「おっ、早いね。そうそう、斉藤さん、これ制服。持って来たよ」

「ありがとうございます」

 なゆみは純貴から渡された、ビニール袋に入った新しい制服を嬉しそうに見つめ、ミナと紀子と一緒に控え室へ入っていった。

 そして着替えて出てきた時、なゆみは照れくさそうにしていた。

 灰色がかった水色をベースに、両サイドに黒いラインが入ったようなすっぽりしたワンピース。

 多少の体系の違いがあっても誰でも難なく着れる。

 メリハリをだすために、黒色の紐をベルトのように腰に巻き、前でリボン結びにするだけの簡単な制服だった。

 誰にでも着れるとはいえ、サイズが小さいのか、丈が短いのか、それはなゆみの背丈に合わず、中途半端な長さであまり似合ってなかった。
 
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