嘘つきには甘い言葉を
「ごめん私、隼人さんとこ行ってくる」
やっと見つけたらせん階段の前には中性的な男性が座り込んでいて、「この上は幹部だけだから、ごめんね」と柔らかく笑う。

「あの……春野桜です。隼人さんと話がしたくて」
思わず強張った顔で言葉を絞り出すと、瞳を輝かせて「へぇ」と呟いて道を開けてくれた。

きっと猫目の彼女はこの上に行くことは出来ないのに、私は名前を言っただけで階段を登ることができる。一段一段踏みしめる度、心が決まっていく気がした。

最後の段に足を乗せると円を縁取るような空間が目に入った。
奥のソファーに腰かけて長い足を組んでいるのは、見慣れた隼人さんの姿だ。

私に気づいた男の人に声をかけられて、いつもの高慢な笑顔で歩み寄ってくる。
「本当に来たのか。
こういうとこ苦手だろ。大丈夫か?」
顔を覗き込まれて思わず俯く。目を見たら言えない気がして。

「ごめんなさい……ちょっと距離を置きたいの。もう会いに来ないで」
早口でそれだけ言って私は駆け出した。

人ごみをかき分けてホールを横切り、階段を登る。店の扉を開く直前で私の手首は掴まれた。
背中が強く壁にぶつかって痛い。
両手首を掴まれて身動きできない私の前には眉を寄せた隼人さんの顔があった。
「どういうつもりだ?」
怒ってる。いつもの不機嫌な様子とは違って、本気で怒ってる……。

怯んだ心を無理やり抑え込んで彼を睨む。
「言った通りだよ。私は隼人さんの事好きじゃないから、付き合えない。
もう会わない」

はっきり言わないと、きっと隼人さんは何もなかったみたいに傍にいてくれる。
それはお互いにとっていいことじゃない。これ以上隼人さんに甘えてちゃいけない。

手首から離れた彼の手は、拳になって振り上げられる。怖くて目をつぶったら、耳元で衝撃音が響いた。

「そんなに龍之介がいいのかよ……?」拳は壁に突き刺さったまま掠れた声で呟く。
「お前が龍之介の事好きなことぐらい初めっから解ってた。いつかはこっち向くかと思ってたけど……俺も馬鹿だよな。もういい。行けよ……」

扉側の腕が降りて、私の行く道を開いた。

目を伏せた横顔はまるで捨てられた子犬みたいで、私の胸をえぐる。
大切にしてくれた。
傍にいてくれた。
待っていてくれた。

その手を、私が離した……。

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