今ならやり直せる
夫の秘密
渡 祥子(ワタリ ショウコ)二十七歳。

これだけ人を愛したのは、人生で初めてだった。

例え、それが世間で“不倫”と非難されても。

その日、店は忙しく、祥子もあがりの時間になっても抜けることが出来なかった。
一時間ほど残業し、ようやく店を出た。

家に帰ると、いつものように酒を飲んで寝込んでいる。夕食を作っておいても食べていない。

寝ていてくれる方が良い。起きていると暴れだし、祥子は暴力を受ける。

夫はお店のお客だった。

お店は格式のある料亭で、ここに来るお客は、ある程度の身分と収入がないと出入りが出来ない。

祥子は家庭に恵まれず中学校を卒業してから、住み込みで働きだし、二十歳の時に一人暮らしを始めた。

夫が初めて店に来たのは、大手の建築会社の社長と、その取引先の会社を接待するためだった。

そこで祥子に一目惚れし、何度も通い、口説き落とした。

祥子は、家庭を持つことに小さい頃から憧れており、派手な生活より、慎ましやかで、温かい普通の家庭を持つことに夢を抱いていた。

毎日、子供と夫の帰りを待つ、静かで穏やかな生活を送りたかった。

もう二十代も後半で、少し焦っていたのもあり、熱心に口説いてくる夫に、根負けする形で短い交際にかかわらず結婚した。

結婚後、すぐに夫が勤めていた大手建築会社の社長が急逝し、息子が跡を継いだが、彼と反りが合わず会社を辞めてしまった。

それ以来、プライドが高い夫は働くこともせず、昼間から酒を浴びるようになっていった。
人生が上手くいかなくなった鬱憤は、祥子への暴力で晴らすようになる。

結婚後、すぐに子供を作り、家庭に入りたかったが、その夢は叶わず、生活費を稼ぐために、料亭を辞めることは出来なかった。

祥子を口説くために料亭に通っていたお金は、後に、借金していたことも判明した。

そんなある日、大木さんが料亭に初めて来店した。

取引先の中国企業の社長が、日本の料亭を体験したいという事で訪れた。

料理を配膳しているときに、着物から少し見える祥子の白い肌に、青あざを見つけて大木は顔を覗き込む。

そして、メイクで隠してあったが、隠しきれない薄青いアザを見て

「あなた、暴力振るわれているのか?」と聞かれた。

「そんなことありません」と答えたが

「そんなはずはない。その傷は殴られた跡だろう」と詰め寄られた。

祥子は黙って部屋を後にして、仕事に戻ったが、仕事を終えて料亭を出ると、大木が店先に立っていた。

「君、もし家庭内で暴力を振るわれているのならば、国が設けている避難場所もあるから、そこに移りなさい」と
祥子を諭す。

祥子は、今まで積もり積もった思いが込み上げてきて、思わず涙する。

大木は肩を抱き

「大丈夫だから。解決策はあるから」と慰める。

そして、その足で、大木のマンションへと避難した。

数日間、携帯電話は鳴りっぱなしだったが、電源を切り、その日から再び電源を入れることはなかった。

店には辞める事情を伝え、しばらく外へ出るのは控えるようにした。

大木は、何も聞かず毎日会社へ出勤し、その帰りに祥子がお願いした食事の材料を買ってきてくれた。

その間、祥子には指一本触れることもなく、嘘のような穏やかな時間が流れていた。

祥子は大木に今までのことを話し、一人でアパートを借りる旨を話す。

「大木さん、いつまでもここにいるのは申し訳ありませんので、明日、アパートを探しに行きます」

「ダメだ。危険すぎる。そういう男はストーカーになってしまうケースが多い。個人の名前でアパートを借りるのは無防備すぎる。ここにいた方がいいだろう」

「でも……」

消え入りそうな声を出す。

「大丈夫だ。心配するな。実は、母親が介護施設に入所することになったので、その近くで物件を探していたのだが、手頃な物が見つかって、今、購入手続きをしている。僕は、そこへ引っ越すので、祥子さんはここで暮らしなさい。家賃の心配も要らない。生活費が必要なら、私が援助する」

「そんな、大木さんにそこまでしてもらう訳にはいきません」

祥子は首を横に振る。

「そうさせてくれ。君を助けたい」

祥子を抱き寄せ、安心させるように背中をさする。

「ありがとうございます」
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