今ならやり直せる
大木は、程なくして一軒家を購入し、引っ越しはしたが、時々会社の帰りに祥子の家に寄ってくれた。

そして、毎週土曜日は、一日中、祥子と過ごし、静かな日常が過ぎていく。

彼は寡黙だが、私にはその方が合っている。騒々しい世界でずっと生きてきて、家庭では安らぐことがなかった。

話すことが無くても、体温が感じられる場所で、二人で入れたらそれでいい。

何も要らない、贅沢はしたいとも思わない。平穏な日々があればそれでいい。

しかし、今日は、どうしても夫がいる家に帰らなければならない。

財布は持ってきていたが、印鑑や必要書類は置いてきたままだったので、それだけは持ち出したい。

夫が居ない間に行かなくてはならないが、日中、働いているとは思えない。しかし、ギャンブルに出掛けている可能性もあるので、意を決して様子を見に行くことにした。

深めに帽子を被り、スカーフで口元を隠して、伊達メガネをかける。

家に戻るのは、三ヶ月振りだろうか。

遠くからマンションの玄関の様子を伺うが、留守なのかどうかは確認できない。

しかし、よく見るとポストに新聞や広告がたくさん入ったままになっている。
もしかして、引っ越ししたのかも知れない。長い留守なのは間違いないだろう。

恐る恐る、玄関まで行き、電気メーターが回っていないか見ると、止まっている。

震える手で鍵を取りだし、扉を開く。

家の中は荒れ放題で、足の踏み場もなく、臭いが籠もっている。

靴のまま上がり、急いで目的の物が入っている引き出しを開けて、無造作に鞄に放り込む。

すぐに、その場から逃げ出したくて、慌てて玄関に戻ろうとすると、テーブルに手紙が置いてあるのに気付く。

それも

“祥子さんへ”とある。

取り敢えず、その手紙も鞄に入れて、扉を閉めてその場から逃げ出した。


少し離れたカフェに入り、喉の渇きを潤す。

恐怖と焦燥感で疲れてしまい、ぐったりする。

落ち着いてくると、手紙を思い出して、鞄の中から取りだし、封筒を開ける。

そこには、綺麗な文字が並んでいる。

読み始めて、それが夫の母親だと気付く。

義母とは、結婚する数日前に会ったが、

「息子を仲居とは結婚させない」と言われてから一度も会っていない。

夫も激しい気性の性格なので、義母に罵倒を浴びせて、それっきりとなっている。

自分としては和解したいと思っていたが、夫が耳を貸すはずはなく、そのままの状態となっていた。

手紙の内容は、夫が病院に入院しているので、一度見舞いに来てくれという事だった。

夫はマンションの階段から足を踏み外し、頭部を強打し、現在意識が回復していないという事が事細かく書かれている。

きっと、酔っぱらった状態で、マンションの階段を利用したのだとすぐに想像できた。

借りていた部屋は二階だったので、普段エレベーターを使わずに、部屋の前にある階段を利用していたからだ。

夫が意識不明という事実を知っても、自分の感情が一ミリも動かなかったことで、ある決意が芽生えた。

このまま、放っておく事は出来ないし、離婚するならするで、手続きをしなくてはいけない。夫には怖くて離婚の話は出来ないが、姑に話せば良いだろう。

そう思うと、少し目の前が開けたような気がしたと同時に、大木と静かな生活を送れるんではないかと希望も見えた。

その足で、書かれてあった病院へ向かう。

受付で入院している部屋を確認し、エレベーターで向かう。

長い廊下の先にその部屋はあり、名前を確認すると夫の名前が書かれていた。

そっと扉を開けて中を覗くと、カーテンの向こうに、夫が静かに横たわっている。

顔を覗き込むと、やはり夫だ。

あの猟奇的な表情はすっかりなくなり、大人しく眠っている。

まるで他人を見るかのように、冷たい目で夫を見ている自分に気付き、溜息をつくと、

「祥子さん」と声がして振り返る。

姑だった。

会うのは二回目で、街で会っても認識できないであろう。

「今までどこに行っていたの?」と言われ、黙り込んでしまう。

そして、信じられないような言葉を次から次へと浴びせられた。

「哲(サトシ)がこんな時に無責任な人」

「だから結婚に反対したのよ」

「哲が可愛そうだわ」

その言葉を終わらせるために

「離婚しようと思っています」と言う。

しかし、それは逆効果で、更に容赦ない言葉が続く。

「あなたから離婚なんて、冗談はやめて頂戴。あなたは中卒の水商売。哲は一流大学を出て大企業で働いているの
よ。働けなくなったら途端、哲を捨てるのね。病人の面倒を見るのが嫌なのでしょうね。お金で結婚するからそう
いうことになるのよ。人間の出来る事じゃないわ」

ただ、離婚することだけを伝えるつもりだったが、仕方なく言いたくないことを口にする。

「夫は、結婚してすぐに会社を辞めました。それ以来、働いていません。それに、暴力を振るわれていたので、離婚するつもりでした」

一瞬、たじろいだように見えたが

「哲がこんな状態になったからって、自分の都合の良いように好き勝手言って。哲がそんなこと、する訳ないでしょう。私は哲の母親なのよ。私が一番よくわかっているわ。あんた、そんなこといって、まだ哲から慰謝料でも取ろうと思っているんでしょ」

もう、この人に何を言っても無駄だ。和解したいと思っていた気持ちも一瞬で吹き飛んだ。

何も言わずに病室を出て、二度と来ないと心に誓った。


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