今ならやり直せる
ダイニングテーブルに座り、先程の病院での出来事を思い出して憂鬱な気分になる。
そこへ大木が帰ってくる。
「おかえりなさい」と祥子が言う。
大木からは「ただいま」という返事は聞こえないが、彼は小さく頷いているのだ。
彼は、元来照れ屋で、人付き合いも上手くない。だから、初めに営業部で働いていると聞いて驚いたが、今では理解できる。
元気ではつらつとした人ばかりでは、相手も疲れるし、そういった人ばかりが好まれるわけではない。
静かだけど、端的に言いたいことは、時間を無駄にせず伝えてくれた方が効率がよいのだ。
相手先も話し好きばかりではなく、要点だけを言ってくれた方が助かる人達もいる。そういう人達が、大木を評価し、部長にまでなったのだ。
部下達も、叱咤ばかりではストレスが溜まるばかりだし、大木のように、何か注意するときも短く、後腐れ無くする方が良いだろう。
祥子は、何度か仕事を探しに出たが、やはり中卒という経歴ではなかなか仕事が見つからず、困っていた。
その時、大木は
「別に働かなくても良い。いつか、離婚出来たら俺と結婚しよう」
短い言葉だったが、祥子には充分だった。
離婚はしたいが、今のままではとても出来そうになかった。これは待つしかない。夫の目が覚めるまでは。
知り合った頃は、祥子に遠慮し、大木は購入した一軒家で暮らしていたが、祥子が仕事帰りに立ち寄る大木に
「今日は、帰らないで」と毎日言うようになってから、マンションで一緒に暮らすようになった。
日曜日は、時々一軒家に帰り、母親の施設へお見舞いに行っていた。
大木は、母親を大切にしており、その母親に威厳が無くなっていくのが辛いとこぼしていた。
小さい頃から教育熱心な人で、子供を厳しく育て、自ら勉強を教えたりして、しつけも厳しかったと聞いた。
「男の子は余計なおしゃべりはするな」と言われ、食事中は黙って食べるように育ったらしい。
それなのに、年老いてくると息子のことを「愛想がない」と逆のことを言い出したと苦笑していた。
厳しかった母が、優しくなったと言えばそうだが、なんだか弱っていくようで、見ているのが辛いとも話していた。
もし、大木と結婚できたら、是非お会いしたいと思っていたが、それはとうとう叶わなかった。
大木との暮らしは、淡々と続いた。
平日は、会社に出勤する彼を見送り、その後、掃除や洗濯、料理の買い出し、空いた時間は、趣味の手芸や読書をして過ごした。
彼が仕事から帰ってくると、静かに食事をし、リビングでお互い本を読んだりして過ごし、休日には、時々外食に
出掛けたり、美術館に絵を見に行ったりした。
それらの時間はとても心地よく、祥子の心を落ち着かせてくれた。
次第に、彼との子供が欲しいと思い始めたが、まだ離婚が成立していない中で、それを望むことは困難だった。
祥子は、その日、夫が入院している病院に行き、姑と鉢合わせしないように細心の注意を払い看護師の詰め所に向かった。
夫の妻だと言ったら「もし何か会ったときには連絡して欲しい」という要望はすんなりと受け入れられた。
携帯の番号を書いた紙を渡して、病院を後にした。
夫の様子を見に行こうかと一瞬頭をよぎったが、暴力を振るわれたことを思い出し、すぐに打ち消した。
いくら、寝ていると言っても、あの目が開くかも知れないと思うと恐怖で耐えられない。
「もし何か会ったとき」というのは、死んだときの事である。
医者の話によると、目が覚める可能性は非常に低いと聞いたので、何か変化があるとすれば、夫が死ぬときだ。
そうすれば、離婚という祥子の希望は叶えられる。
どこかで、早く夫が死に、大木と結婚したいと思い始めていた。
その後、夫婦同然の暮らしが八年続いた。
それはあっという間で、祥子も三十五歳になった。
大木とは、大きな喧嘩もせず、平凡だが幸せな毎日を送っていた。
しかし、その夜、祥子の心を引き裂く出来事が起こった。
大木は神妙な顔つきで、祥子の前に座り、深々と頭を下げる。
祥子の顔がこわばる。
「すまない。俺の一時の気の迷いだった。部下と寝てしまい、その一回で子供が出来てしまった」
浮気のことよりも、子供が出来たという事実に落胆を感じる。私だって、大木との子供が欲しいし、結婚をしたい。
「どうするの?」
大きく息を吐き
「子供が出来たなら、結婚するしかない。でも、信じて貰えないかも知れないが、祥子の事を一番大切に思っているし、これからもそうだ。それは変わらない。出来心だった。本当にすまない」
もう、大木を愛してしまっている。
「私、どうしたらいい?」
惚れた弱みだ。自分では決められない。好きな人に決めて貰えれば、それに従おうと考えた。
「勝手だとわかっている上で言うが、祥子との生活は続けたい。お前といると安らぎを感じるし、これ以上の幸せはないと思っている。なぜ、浮気してしまったのか自分でもわからない。それも二十歳も年下なんて、どうかしている。自分の価値を確かめたかったのかも知れない。どんどん若さがなくなっていく恐怖心から、男として、まだいけるのか、試したかっただけだ。許してくれ」
祥子は怒りを感じなかった。何となく、言っている意味は理解できるからだ。
料亭で働きだしたのは、十六歳で、仲居として店には出なかったが、それでも色んな人に可愛がられた。
贔屓の上客から、かなりの額で「買いたい」という要望もあったと、女将さんから聞いたこともあった。
二十代になると、座敷で配膳をするようになったが、若い人から年配まで多くの男性に誘われたり、口説かれたりで、断るのが面倒な程だった。
いくらでも、男性は言い寄ってくる物だと勘違いするほどで、適齢期になったら誰かを選べばいいとさえ考えていた。
それは二十代の前半の話で、後半になると、一気に数は減り、女性としての魅力が無くなったのかと落ち込んだりした時期もあった。
このまま、女として終わっていくのだろうかと考えた矢先、夫に出会ってしまった。
しつこく口説かれたのは久し振りだったし、最後かもしれないという焦りからか、あっさり受け入れてしまったのだ。
男性は、社会に出ていれば当然そんな気持ちになるのではないかと想像できる。
会社では、次から次へと毎年新入社員が入ってきて、若さを見せつけられ、女性社員は若い男性社員と飲みに出掛けたり、楽しくおしゃべりしたりしているだろう。
次第に、自分は疎外感を感じ、独身であっても、結婚対象としては初めから省かれており、プライドが傷つけられるだろう。
収入も、立場も上であっても、若いという武器には太刀打ちできないのだ。
祥子は冷静に大木に言った。
「いいですよ。結婚しても。でも、条件があります。私にも子供を作ってください」
大木は驚いて言葉を失っているが我に返り
「でも、今作ったら、今の夫の子供になるぞ。いいのか」
そんなことは、わかっている。でも、長年夫婦同然に暮らしてきた女のプライドとして、ここは譲れなかった。
今までは、そうなることを恐れて、大木も気をつけて作らないようにしてきた。私自身も、面倒な事に巻き込みたくないと思い、そうしてきた。でも、もう夫と別居期間も長くなり、離婚申請しても認められるかもしれない。いや、そんなことより、もう三十五歳だ。後がない。この出来事が背中を強く押したのだ。
「わかっています。それでも欲しいのです」
しばらく大木は考えて
「わかった。祥子が望むなら」
そうして、二人の間に、小さな命が宿ることになった。
そこへ大木が帰ってくる。
「おかえりなさい」と祥子が言う。
大木からは「ただいま」という返事は聞こえないが、彼は小さく頷いているのだ。
彼は、元来照れ屋で、人付き合いも上手くない。だから、初めに営業部で働いていると聞いて驚いたが、今では理解できる。
元気ではつらつとした人ばかりでは、相手も疲れるし、そういった人ばかりが好まれるわけではない。
静かだけど、端的に言いたいことは、時間を無駄にせず伝えてくれた方が効率がよいのだ。
相手先も話し好きばかりではなく、要点だけを言ってくれた方が助かる人達もいる。そういう人達が、大木を評価し、部長にまでなったのだ。
部下達も、叱咤ばかりではストレスが溜まるばかりだし、大木のように、何か注意するときも短く、後腐れ無くする方が良いだろう。
祥子は、何度か仕事を探しに出たが、やはり中卒という経歴ではなかなか仕事が見つからず、困っていた。
その時、大木は
「別に働かなくても良い。いつか、離婚出来たら俺と結婚しよう」
短い言葉だったが、祥子には充分だった。
離婚はしたいが、今のままではとても出来そうになかった。これは待つしかない。夫の目が覚めるまでは。
知り合った頃は、祥子に遠慮し、大木は購入した一軒家で暮らしていたが、祥子が仕事帰りに立ち寄る大木に
「今日は、帰らないで」と毎日言うようになってから、マンションで一緒に暮らすようになった。
日曜日は、時々一軒家に帰り、母親の施設へお見舞いに行っていた。
大木は、母親を大切にしており、その母親に威厳が無くなっていくのが辛いとこぼしていた。
小さい頃から教育熱心な人で、子供を厳しく育て、自ら勉強を教えたりして、しつけも厳しかったと聞いた。
「男の子は余計なおしゃべりはするな」と言われ、食事中は黙って食べるように育ったらしい。
それなのに、年老いてくると息子のことを「愛想がない」と逆のことを言い出したと苦笑していた。
厳しかった母が、優しくなったと言えばそうだが、なんだか弱っていくようで、見ているのが辛いとも話していた。
もし、大木と結婚できたら、是非お会いしたいと思っていたが、それはとうとう叶わなかった。
大木との暮らしは、淡々と続いた。
平日は、会社に出勤する彼を見送り、その後、掃除や洗濯、料理の買い出し、空いた時間は、趣味の手芸や読書をして過ごした。
彼が仕事から帰ってくると、静かに食事をし、リビングでお互い本を読んだりして過ごし、休日には、時々外食に
出掛けたり、美術館に絵を見に行ったりした。
それらの時間はとても心地よく、祥子の心を落ち着かせてくれた。
次第に、彼との子供が欲しいと思い始めたが、まだ離婚が成立していない中で、それを望むことは困難だった。
祥子は、その日、夫が入院している病院に行き、姑と鉢合わせしないように細心の注意を払い看護師の詰め所に向かった。
夫の妻だと言ったら「もし何か会ったときには連絡して欲しい」という要望はすんなりと受け入れられた。
携帯の番号を書いた紙を渡して、病院を後にした。
夫の様子を見に行こうかと一瞬頭をよぎったが、暴力を振るわれたことを思い出し、すぐに打ち消した。
いくら、寝ていると言っても、あの目が開くかも知れないと思うと恐怖で耐えられない。
「もし何か会ったとき」というのは、死んだときの事である。
医者の話によると、目が覚める可能性は非常に低いと聞いたので、何か変化があるとすれば、夫が死ぬときだ。
そうすれば、離婚という祥子の希望は叶えられる。
どこかで、早く夫が死に、大木と結婚したいと思い始めていた。
その後、夫婦同然の暮らしが八年続いた。
それはあっという間で、祥子も三十五歳になった。
大木とは、大きな喧嘩もせず、平凡だが幸せな毎日を送っていた。
しかし、その夜、祥子の心を引き裂く出来事が起こった。
大木は神妙な顔つきで、祥子の前に座り、深々と頭を下げる。
祥子の顔がこわばる。
「すまない。俺の一時の気の迷いだった。部下と寝てしまい、その一回で子供が出来てしまった」
浮気のことよりも、子供が出来たという事実に落胆を感じる。私だって、大木との子供が欲しいし、結婚をしたい。
「どうするの?」
大きく息を吐き
「子供が出来たなら、結婚するしかない。でも、信じて貰えないかも知れないが、祥子の事を一番大切に思っているし、これからもそうだ。それは変わらない。出来心だった。本当にすまない」
もう、大木を愛してしまっている。
「私、どうしたらいい?」
惚れた弱みだ。自分では決められない。好きな人に決めて貰えれば、それに従おうと考えた。
「勝手だとわかっている上で言うが、祥子との生活は続けたい。お前といると安らぎを感じるし、これ以上の幸せはないと思っている。なぜ、浮気してしまったのか自分でもわからない。それも二十歳も年下なんて、どうかしている。自分の価値を確かめたかったのかも知れない。どんどん若さがなくなっていく恐怖心から、男として、まだいけるのか、試したかっただけだ。許してくれ」
祥子は怒りを感じなかった。何となく、言っている意味は理解できるからだ。
料亭で働きだしたのは、十六歳で、仲居として店には出なかったが、それでも色んな人に可愛がられた。
贔屓の上客から、かなりの額で「買いたい」という要望もあったと、女将さんから聞いたこともあった。
二十代になると、座敷で配膳をするようになったが、若い人から年配まで多くの男性に誘われたり、口説かれたりで、断るのが面倒な程だった。
いくらでも、男性は言い寄ってくる物だと勘違いするほどで、適齢期になったら誰かを選べばいいとさえ考えていた。
それは二十代の前半の話で、後半になると、一気に数は減り、女性としての魅力が無くなったのかと落ち込んだりした時期もあった。
このまま、女として終わっていくのだろうかと考えた矢先、夫に出会ってしまった。
しつこく口説かれたのは久し振りだったし、最後かもしれないという焦りからか、あっさり受け入れてしまったのだ。
男性は、社会に出ていれば当然そんな気持ちになるのではないかと想像できる。
会社では、次から次へと毎年新入社員が入ってきて、若さを見せつけられ、女性社員は若い男性社員と飲みに出掛けたり、楽しくおしゃべりしたりしているだろう。
次第に、自分は疎外感を感じ、独身であっても、結婚対象としては初めから省かれており、プライドが傷つけられるだろう。
収入も、立場も上であっても、若いという武器には太刀打ちできないのだ。
祥子は冷静に大木に言った。
「いいですよ。結婚しても。でも、条件があります。私にも子供を作ってください」
大木は驚いて言葉を失っているが我に返り
「でも、今作ったら、今の夫の子供になるぞ。いいのか」
そんなことは、わかっている。でも、長年夫婦同然に暮らしてきた女のプライドとして、ここは譲れなかった。
今までは、そうなることを恐れて、大木も気をつけて作らないようにしてきた。私自身も、面倒な事に巻き込みたくないと思い、そうしてきた。でも、もう夫と別居期間も長くなり、離婚申請しても認められるかもしれない。いや、そんなことより、もう三十五歳だ。後がない。この出来事が背中を強く押したのだ。
「わかっています。それでも欲しいのです」
しばらく大木は考えて
「わかった。祥子が望むなら」
そうして、二人の間に、小さな命が宿ることになった。