今ならやり直せる
大木は、会社の部下と結婚し、一軒家に住まいを移した。
土曜日は朝から家に来てくれて、一日一緒に過ごしてくれる。
平日は、時々家に立ち寄ってくれたが、必ず八時過ぎには家を後にした。
大木は
「二人には責任を取る必要がある。だから、しばらくはこの形で過ごさせて欲しい」と言われ、祥子も了承した。
結婚して二週間後、大木の奥さんは流産したと聞いた。
本来なら、離婚して自分と結婚して欲しいと思うだろうが、既に妊娠していた祥子は、とてもそんな気持ちになれなかった。
同じ女性として、深い悲しみを感じていることはわかっていたし、同じくらいの時期に子供が出来て、自分だけ幸せを望む気にはなれなかった。
大木の子供がお腹の中にいるだけで幸せだったし、もう籍の事や、大木との結婚のことは、重要ではなかった。
形だけの手続きや形式ではなく、いまここにある事実が大切だった。
祥子は無事に男の子を出産し“弦(ゆずる)”と名付けた。
大木も、慣れない手つきで弦を抱いて、会社帰りで疲れているのに、お風呂に入れたりしてくれた。
あまり奥さんの話はしなかったが、ぽつりと
「いつも、つまらなそうにしている」と聞いていた。
祥子は、大木との生活がこんなに癒やされるのにと不思議に感じていた。
望んでいた生活と、ほんの少し違うけれど祥子は今の生活に満足していた。
愛する人が居て、その愛する人との間に生まれた息子がいる。
穏やかで、平凡な日々。
心が満たされていたことで、すっかり夫の事は忘れていたが、それを思い起こさせるように、病院から電話が鳴る。
「旦那様が目を覚ましました」
憎しみが残っている頃は、夫がこのまま亡くなってくれればいいのにと思っていたが、自分が幸せを感じるようになってからは、元気になって欲しいと願うようになっていた。
病院に行くことを迷うが、息子のためにも決着をつけなくていけない。
大木は、一緒について行くと何度も言ってくれたが、自分の問題だからと説得し、土曜日に弦を預かって貰い、病院に向かった。
最後に病院に行ってから、八年の歳月が経っていた。
恐る恐る、病室に向かう。以前の病棟から部屋は替わっていた。
ノックして部屋にはいると、夫が視線をこちらに向けた。
身体は痩せて、顔も生気を失っているように見えた。
掛ける言葉が見つからず動けずにいると、夫が布団から腕を出して、机を指さしている。
机に向かうと、そこには離婚届が記入されて置いてあった。
紙に書かれた文字は震えていて、昔見た夫の字の面影はなかった。
必死で涙を堪えて、離婚届を握りしめ、深く礼をして病室を去った。
頭を上げたとき、一瞬夫の顔を見たが、少し微笑んでいるように見えた。
病院から駆け出すと涙が止まらない。
どういう意図でこれを書いたか聞こうと思ったが、聞いたところで、説明する性格ではない。こうと決めたら誰が何と言おうと聞かない性格だ。
「目が覚めて良かったね。早く元気になってね」病院の窓に向かって呟いた。
マンションに戻ると、大木が近くの公園で弦と遊んでいる。
きっと心配して表で待っていたのだが、恥ずかしがりなので、そんなことは言わないが、祥子にはわかっている。
鞄から離婚届を出して見せると
「そうか。良かった」と一言いうと、弦の所へ戻る。
その後ろ姿と弦を見て言った。
「もう、このままでもいい。充分幸せだから」
土曜日は朝から家に来てくれて、一日一緒に過ごしてくれる。
平日は、時々家に立ち寄ってくれたが、必ず八時過ぎには家を後にした。
大木は
「二人には責任を取る必要がある。だから、しばらくはこの形で過ごさせて欲しい」と言われ、祥子も了承した。
結婚して二週間後、大木の奥さんは流産したと聞いた。
本来なら、離婚して自分と結婚して欲しいと思うだろうが、既に妊娠していた祥子は、とてもそんな気持ちになれなかった。
同じ女性として、深い悲しみを感じていることはわかっていたし、同じくらいの時期に子供が出来て、自分だけ幸せを望む気にはなれなかった。
大木の子供がお腹の中にいるだけで幸せだったし、もう籍の事や、大木との結婚のことは、重要ではなかった。
形だけの手続きや形式ではなく、いまここにある事実が大切だった。
祥子は無事に男の子を出産し“弦(ゆずる)”と名付けた。
大木も、慣れない手つきで弦を抱いて、会社帰りで疲れているのに、お風呂に入れたりしてくれた。
あまり奥さんの話はしなかったが、ぽつりと
「いつも、つまらなそうにしている」と聞いていた。
祥子は、大木との生活がこんなに癒やされるのにと不思議に感じていた。
望んでいた生活と、ほんの少し違うけれど祥子は今の生活に満足していた。
愛する人が居て、その愛する人との間に生まれた息子がいる。
穏やかで、平凡な日々。
心が満たされていたことで、すっかり夫の事は忘れていたが、それを思い起こさせるように、病院から電話が鳴る。
「旦那様が目を覚ましました」
憎しみが残っている頃は、夫がこのまま亡くなってくれればいいのにと思っていたが、自分が幸せを感じるようになってからは、元気になって欲しいと願うようになっていた。
病院に行くことを迷うが、息子のためにも決着をつけなくていけない。
大木は、一緒について行くと何度も言ってくれたが、自分の問題だからと説得し、土曜日に弦を預かって貰い、病院に向かった。
最後に病院に行ってから、八年の歳月が経っていた。
恐る恐る、病室に向かう。以前の病棟から部屋は替わっていた。
ノックして部屋にはいると、夫が視線をこちらに向けた。
身体は痩せて、顔も生気を失っているように見えた。
掛ける言葉が見つからず動けずにいると、夫が布団から腕を出して、机を指さしている。
机に向かうと、そこには離婚届が記入されて置いてあった。
紙に書かれた文字は震えていて、昔見た夫の字の面影はなかった。
必死で涙を堪えて、離婚届を握りしめ、深く礼をして病室を去った。
頭を上げたとき、一瞬夫の顔を見たが、少し微笑んでいるように見えた。
病院から駆け出すと涙が止まらない。
どういう意図でこれを書いたか聞こうと思ったが、聞いたところで、説明する性格ではない。こうと決めたら誰が何と言おうと聞かない性格だ。
「目が覚めて良かったね。早く元気になってね」病院の窓に向かって呟いた。
マンションに戻ると、大木が近くの公園で弦と遊んでいる。
きっと心配して表で待っていたのだが、恥ずかしがりなので、そんなことは言わないが、祥子にはわかっている。
鞄から離婚届を出して見せると
「そうか。良かった」と一言いうと、弦の所へ戻る。
その後ろ姿と弦を見て言った。
「もう、このままでもいい。充分幸せだから」