今ならやり直せる
学生時代、大手の企業への就職が決まったとき、この先どうしようかと考えた。
給料も良いし、数年この会社で働いて、伴侶を見つけて、結婚すればいいと思っていた。

就職して半年くらい経った頃、営業部の上司に食事に誘われた。

あの時から、全てが狂ったのかも知れない。

事務職といっても雑用も仕事の内に入っており、会社にくる訪問客のお茶だしや、会議の資料のコピー、備品の補充もやらなければならなかった。
しかし、女性社員も多く、交代でこなしていれば、大した労力でもなく、パソコンの前で一日仕事をしているよりは、気分転換になって良いと思っていた。

その日は、大人数の訪問客が来たので、コーヒーカップの片付けに追われ、給湯室で大量の洗い物をしていると、営業部の大木(オオキ)部長がやってきた。

「たくさんの洗い物だね」と後ろから声を掛けられて驚く。
いつも寡黙で、あまり女性社員と話している姿を見たことがなかったからだ。

「そうですね」と当たり障りのない返答をすると

「今度、食事に行きませんか」と言われて、更に驚いた。

華からすると、四十二歳のおっさんである。

まさか、二十二歳の新入社員を本気で誘っているとは思わず「はい」と答えてしまった。

「じゃあ、明日、ロダンで待っているから」と言い残して去っていった。

ロダンとは会社の近くのカフェの名前で、華もよく利用していた。

「本気だったんだ」と少し考えたが、社会人になったばかりだし、上司が部下を食事に連れていくことはあるだろう、無碍に断るのも不自然だし、ご馳走になろうと自分に言い聞かせた。


翌日、ロダンに行き、店内を見回したが、まだ大木部長は来ていなかった。
入口に一番近い席に座り、外を眺めていると、大木部長が手招きしており、慌てて残りのコーヒーを飲んで、外に出た。

「予約しているから行こう」と言われて、スタスタと歩き出し、慌ててその背中を追った。
さすがに会社の近くだし、人に見られたくないのか、足早に歩いていく。

十分程歩き、旅館のような和風の建物に入っていく。

「いらっしゃいませ」と着物姿の女性が上品にお辞儀し、店内へと案内してくれる。

いつも居酒屋ばかりなので、老舗の高級店のような店構えに少し緊張する。
和式の個室で小さな庭もあり、暖色系のライトがムードを作り出している。

店員がやってくると、大木部長は手慣れた様子でメニューをチョイスし、お勧めのドリンクも一緒にオーダーする。

二十二歳の華にとっては、テキパキとオーダーする姿が大人に見えて、少しときめいた。
安い居酒屋で友人達と飲む場合、メニューをワイワイと指さしながら、あーだ、こーだとなかなか決まらず、店員も苦笑いしていたからだ。

今までの恋人も、自分と変わらない年齢とばかり付き合ってきたので、食事を行くにも、どこへ行こうかという話から始まり、意見が食い違うと喧嘩になったりして疲れることばかりだった。
あまり、年の離れた男性には興味はなかったが、それは知り合うチャンスもなかったし、知らなかっただけかも知れない。

年上の男性の魅力はこういったところかもと思っていると
「これは大間のマグロで、非常に美味しいから食べてみて」と言われ、口にする。

とろけるようなお刺身で、思わず
「美味しい」と声をあげる。

次から次へと運ばれてくる料理は、地方の特産品ばかりで、名前は知っているが食べたことがない食材で感激する。
仙台の牛タン、高知のかつおのタタキ、広島の牡蠣、北海道のジンギスカン等、旅行のパンフレットに載っている名産品に舌鼓を打つ。

無我夢中で食べていると
「今週末、ドライブに行かないか」と言われ、現実に戻される。

「え?私とですか?」と思わず聞いてしまった。

「大龍房(ダイリュウホウ)って知っているか?」

大龍房といえば、有名な本場の中華料理店で、財界人、有名人が訪れると言われる名店で、予約もなかなか取れないお店だ。

高級料理店だが、敢えて地方の田舎に出店しており、お店の周りは緑に囲まれ、まるで隠れ家のような所だと聞いている。

ネットで画像は見たことがあるが、森の中に広大な芝生が広がり、人工的に作られた池や瀧もあり、中国庭園を作り上げている。その風景もこの店のウリである。

ただ、単純に「行きたい」と思ったが、それはデートなのか、どういう意図で誘っているのか知りたくなる。

「それって、デートですか?」とハッキリ聞いてみた。

「三島(シミマ)さん、面白いね。あまりにも食べっ振りがいいから、大龍房に行ったらどうなるのだろうって興
味が湧いたのだよ」と笑う。

少し迷ったが、どうしても大龍房に行きたくて、思わず「はい」と返事してしまった。
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