今ならやり直せる
家に戻り、いつもなら先に食べる夕飯を食べずに待つことにした。

いつもの時間に夫は帰宅し、テーブルに座る。

二人分の料理がテーブルに並んでいることに気づいて、少し驚いている様子だ。

華は向かい側に座り、一緒に食事を取る。外食以外に二人で食事を取るのは、何年振りだろう。

会話はなく、静かな時間が流れ、食べ終えたところで夫に話しかける。

「話があります」

夫は、箸を置いて

「実は、俺も話がある」

夫が私に話があるなんて意外だった。自分の話は、不平不満ばかりなので、夫の話を先に聞くことにした。

「あなたから言ってください」と言うと、少し夫は姿勢を正したような気がした。

「離婚してくれないか」

驚きの余り、声が出ない。自分から言うことはあっても、相手から言われるなんて予想もしていなかった。

訳がわからず聞き間違いじゃないかと考えたが、はっきりそう言っていた。

「すまない。俺には、ずっと付き合っている人がいた。お前と結婚する前からずっとだ。もう、八年になる」

八年と言えば、私と結婚する三年も前からだ。頭が混乱してきて、目眩がする。

「大丈夫か?」と夫が心配するが、どういうことか事実が知りたくて

「大丈夫」と答えた。そして夫は続ける。

「彼女は、その当時、結婚していた」

想定外の言葉ばかりが続いて、驚きを隠せない。この真面目な夫が不倫!?

「旦那に暴力を振るわれていて、それに悩んでいる時に俺と知り合った。そして、一緒に暮らし始めたんだ。それからすぐに、その旦那が事故で意識が戻らず、離婚が出来なかった」

黙っているしか出来ない。

「それで、その後、子供が出来た」

「え!?」流石に声が出た。

それを聞いて夫は

「本当にすまない」とテーブルつくぐらいに頭を下げている。

子供がいて、私と結婚!? どういう事?

夫は私の動揺に気付いているが話を続ける。

「子供が出来たのは、五年前だ。お前が妊娠した、その後だ」

聞きたくないが、もうこうなったら傷ついている場合ではない。

「付き合っている人がいたのに、どうして私と?」

答えに困る質問に、少し動揺が隠せない。

「すまない。一時の気の迷いだった」

数時間前に聞いた剛君の言葉が頭の中をよぎる。

“最後は単なる気の迷いね。これは仕方ないことだよ。男であっても女であっても、そんな気になることはいくらだってある”

今まで、夫は結婚できない独身男で、私のような二十歳年下を口説き落として、ラッキーじゃないかとまで思っていた。

それが、私の方が浮気相手だったなんて、あまりの衝撃にプライドが崩れ去る。

自分の傲慢さが恥ずかしい。

夫は、もう怖い物はないと覚悟を決めているようで続ける。

「それで、最近、彼女の旦那が意識を取り戻して、やって離婚届を書いたんだ。子供もいるし、ここでけじめを付けたいと思っている。お前はまだ若い。きちんと慰謝料も支払うつもりだ。勝手なことを言ってすまない。今ならやりなおせる」

昨日までの平凡な日常が嘘のような展開になっていて、人生ってわからないものだと、どこかに冷静な自分がいた。

相手に子供がいるのに、自分が大木の籍にしがみつくなんて事は考えられない。それに、相手が本命で私は単なる浮気相手だ。たまたま子供が出来ただけで、その責任を取って、夫は私と結婚した。

夫も、長年の二重生活で疲れているだろう。こんな時に夫の心配をするなんて馬鹿げているとは思うけれど、正直にそう感じたのだ。

無言で出掛けていた外食も、今から思えば私に対する気遣いで、結婚したからには、一緒に出掛けようと思ってくれていたのだろう。

一日中、土曜日に居なかったのは、その女性の所に通っていたのだろう。

若い子が好む食べ物は食べないと不満に思っていたけど、時々残す食事は、女性の所で食べてきていたのかも知れない。

私が、一つ一つ、その疑問や不満をきちんと夫に伝えていれば、もっと早い段階で、夫は私に離婚を言っていたのかも。

何一つ、話し合わないで、相手に気持ちなど通じるはずがない。

最後の疑問だけはぶつけてみる。

「もし、私が流産していなかったら、どうしていたの?」

夫は迷うことなく

「離婚することはなかった。君が言い出したら仕方ないが、俺から言うことはないし、そんな権利もない。彼女は
子供を欲しがったが、一度も結婚して欲しいとは言ってこない。どちらも俺の子供だ。ちゃんと責任は取る。その覚悟は出来ていた」

彼女の夫への愛情は本物だ。結婚しなくても、夫の子供を欲しがり、結婚という形ではなく、本当の愛があれば、充分なのだろう。

それに引き替え、私は、妊娠がわかったとき、どちらかと言えば、望まない妊娠で、流産したときも、これで良かったのかもと心の中で感じていた。

子供も、そんな母親の元には生まれて来たくなかったのだろう。

それに、夫は充分な生活費をくれて、外食には定期的に連れ出し、文句や愚痴も言わず、生活してきた。

それなのに、私の心の中は不満だらけで、相手に期待ばかりして、自分が変わろうとしなかった。

仕事を始めてようやく、色んな物が見えてきたばかりだ。

もう、解放してあげよう。

「わかりました」

夫は、私の意外な言葉に目をぱちくりさせている。

きっと、私の性格だと、自分は責め立てられて、延々と今までの愚痴や不満をぶつけられると思っていたのだろう。

自分でも驚くほど怒りの感情は生まれてこず、今までの夫の行動や言動が腑に落ちた感じがしたのだ。

「ありがとう」

夫は静かに言った。


夫は、この家を渡すと言ったが、私は断り、その代わりにマンションを一室借りて貰った。

借りるくらいなら、マンションを購入するとも提案してくれたが、それもお断りした。

家賃も自分で払っていきたいし、今の収入で慎ましやかに生活は出来るだろうと判断したからだった。

慰謝料として、まとまったお金は頂いたが、それには手を付けないで生活しようと心に誓った。

最後まで夫は、私に優しくしてくれた。

引っ越し業者も手配し、一人暮らしに最低限必要な物も買い揃えてくれた。書類上の手続きもてきぱきとこなし、

新居の水道、電気、ガスの開通手続きもしてくれた。

別れて初めて夫の優しさに気付く。

夫の彼女は、その優しさに初めから気付いていたのだろう。

家から出て行く日、自分は生まれ変わった気持ちで夫に伝えた。

「今までありがとうございました。そして、すみませんでした」

それを聞いた夫は

「どうして謝るんだ。悪いのは俺だ。毎日、美味しい食事を作ってくれて、部屋を綺麗に掃除してくれて、洗濯を
してくれてありがとう。それに、母親と仲良くしてくれた事も感謝している」

頷いて微笑む。

そして、五年間住んだ家を後にした。

夫がそんなことを思っていたなんて、少し驚いた。言葉は少ないが、ちゃんとそう思っていたのだ。夫のことをわかっていたのなら、言葉に出さなくても気づいていたはずだ。

新しいマンションまで歩きながら「幸せになってね」と心の中で願い、夫の言葉を声に出して言ってみた。
“今ならやりなおせる”と。

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