最愛の調べ~寡黙な王太子と身代わり花嫁~
西の国





「ちょっと待って」

一晩よく眠り、冷静さを取り戻して発した第一声がそれだった。
起きたばかりの目を、朝日が容赦なく突き刺してくる。
今日も美しい晴れ間が広がっていた。

「私はなにを浮かれていたの……。サムエルが言っていたのは、要するに」

朝から思わず独り言をぶつぶつと呟いてしまう。
そう、要するにサムエルの話は――イザベラに、歌姫として活躍して欲しいということではないか。

(歌えないのに?)

歌姫としてフェルナードの盾になるということは、その歌声で周囲の視線をフェルナードから逸らせということだ。

昨日、あんな自信満々な態度で請け負ったというのに、やっぱり歌えません、じゃ詐欺である。

(あの美しい人の役に立てると思って浮かれていた)

フェルナードに微笑まれただけで浮き足立っている自分が恥ずかしい。
恥ずかしいと思いつつ、昨夜、フェルナードと交わした声のない穏やかな会話が頭の中をめぐりにめぐって、イザベラの頭をぼんやりとさせる。
ぼんやりしている場合ではないと何度己を叱咤しても、ふと気を抜けばまたあの会話を繰り返している。

「イザベラ様、そうして壁にぶつかりそうになるのはこれで三度目でございます。本当にぶつかってしまう前に目を覚まされてください」

そしてとうとう、侍女から苦言をいただいた。
その三度すべて彼女に助けてもらっているので、頭が上がらない。

「ごめんなさい……」
「わたくしのような者に謝る必要はありません。イザベラ様はフェルナード王子の妻となる方。お体の傷には充分にお気をつけくださいませ」

その言い方、なんだかとてもいやらしものを連想させて困る。
とはさすがに口にしなかったが、見事四度目を更新した。

「舞踏会でお疲れなら、今日は歌の稽古はお休みになられては」

さすがに四度も繰り返すと体調が悪いのではと心配になったのか、侍女がいくぶん柔らかな声でイザベラを覗き込んできた。

「大丈夫。それは必ずするわ」

しなければまずい。人前で歌えなくなってから、本格的なレッスンはしてこなかった。人前で歌う歌わない以前に、錆び付いている己の声を取り戻さなければ。

(そうじゃないと、フェルナードの役には立てない)


「ならばもう少ししっかりなさいませ。このようにぼんやりされていては丘までお一人で行かせられません」

きっぱりとそう言われ、イザベラは改めて侍女を見つめた。

今の言葉は、イザベラを心配してくれている言葉だ。
笑顔もないし物言いもきついが、彼女は悪い人ではない。

彼女には、朝起きて一番に歌の稽古の続行を願い出た。最初は渋った彼女だったが、熱心にお願いすると自らフェルナードのもとへ赴き、許可をもぎとってイザベラの願いを叶えてくれたのだ。

「そういえば、私、あなたのお名前も聞いていなかったわ」

エルゴルのこと、歌のこと、舞踏会のこと、フェルナードのこと……他のことにばかり気が行って、一番世話を焼いてくれた彼女をないがしろにしていた。

「わたくしの名前など覚えなくてよろしいのです。それよりもアステート公国の憲法書を……」
「あなたの名前が知りたい」

変な方向へちくちく言い出しそうになった彼女の声を遮り、イザベラははっきりと声を上げた。
なるべく命令にならないように、お願いとして彼女に受け取ってもらえるように。
彼女は少し驚いたように目を見開いた後、少しためらうように視線を逸らした。
何度か逡巡して、小さく口を開ける。

「……ベルと申します」

下手をすると聞き漏らしそうな声だったが、イザベラはなんとかその声を拾い上げる。
その様子が拗ねた子供のようで、なんだか可愛い。

「ベル。なんて素敵な名前なの。今までありがとう。これからもどうぞよろしく」

嬉しくなって、思わずベルの両手を握る。
イザベラの言葉に小さく頷いたベルの頬は、ほんのりと赤くなっているようだった。

「……なんだかとても嬉しくなってきたわ。ねえベル。今日は一緒にお外でお茶でもしない?」

イザベラはやにさがった顔でそう言ったが、ベルの対応はいつもと変わらなかった。

「本日はアステートの歴史をお勉強する予定が入っております。ただでさえ姫は覚えるのが苦手なのです。歌の練習をしたいのであれば、そちらをまずきっちりこなしてくださいませ」

否、いつも以上に辛辣だった。




イザベラの勉強は、アステート公国の歴史、憲法、主要政策を中心として行われている。
今まで必要最低限の勉強を済ませたあとは歌ばかり歌ってきたので、見識はあるが頭の出来はあまりよろしくない。正直、机に向かって黙々とお勉強するのは苦手である。

「イザベラ様、今日は西の国についてお話いたしましょう」

だが、講師から言われたその一言に、イザベラはぐっと背筋を伸ばした。

〝西の国〟――。

昨夜、サムエルの話の中で出てきた国だ。この国との戦いを制すれば、フェルナードの立場は磐石なものとなるという、あれである。

そもそも、エルゴルの王である父がアステートを差し置いて商売を持ちかけた相手が西の国だった。
今まで採れていた銅と青銅とは別に、新たに鉄が発掘されたタイミングで、西の国から名のある商人が入国してきた。さすがに怪しいと父王はいぶかしんだのだが、長年アステート公国が主流となっていた取引先を増やしたいとの思惑もあり、商人を通じて西の国へと鉄の輸出について話を持ちかけたのである。そもそも、西の国はアステートを挟んだ向こう側にあり、エルゴルへと入ってくる情報量が少ない。アステートと度々交戦してきたことはわかっていたが、今も尚その戦が続いているとは思っていなかったのである。
アステートと西の国が交戦中であること、友好国であるアステートを差し置いて西の国に鉄を輸出しようとしたことは裏切り行為にあたる、というような内容の書状が届いて初めて、事態の深刻さに気付いたというわけだ。
完全に情報不足、調査不足、父王の欲が招いた当然の結果だった。

西の国は海に面しており、物資も豊かだという。ただし海からの潮にやられ、農作物の生産量が少ないのが長年の悩みであり、山間部の田畑でも充分に賄えているようだが、国をもっと豊かにしたいがために隣に接している緑豊かなアステートの土地を何百年と前から狙っているのである。その度に国境では戦が勃発し、休戦、またはアステートの勝利、西の国の戦略的撤退などをもって、今日までアステートは己の土地を守ってきた。
アステートが軍事国家といわれるようになったのも、西の国との戦いをこなしていくうちに自然と軍事力がついたことに由来する。その軍事力を利用し、エルゴルで採れた銅の武器を使い、他の国を侵略することもあったというが、現在の王は穏健派で、無用な争いはしないとされている。ただし、こちらから喧嘩を売る真似はしないというだけで、売られた場合はきっちりと買うのがお国柄のようである。
イザベラもまた、買った喧嘩の戦利品のようなものだ。

「エルゴルとアステートのように友好国として繋がることはなかったのでしょうか」

疑問に思ったことを講師に問えば、ひやりとした視線を向けられた。

「長い歴史の中で、そういった条約が結ばれたこともかつではあったようですが、どちらかの裏切りにより何度か破棄されています。ご存知の通り、長年友好国として信を置いてきた相手であっても、裏切られることもあるのです。アステートと西の国は、国力に関しても同等か、アステートが少し上回る程度。戦わずにはいられないい運命なのでしょう」

質問には答えてもらったものの、強烈な皮肉も頂いてしまった。
痛む胸を押さえながら、イザベラはそれを悟られないように努める。

「西の国とは今は?」

サルエルの話では、今はまだ水面下で交戦しているとのことだった。水面下での交戦が具体的にどのようなことを指すのかイザベラには見当もつかないが、その事実を知っているのはどの程度の人間までなのだろう。

「現在は特に争いは起きておりません。あちらの偵察のものが国境付近に姿を現す程度でしょうか。とはいっても、国境警備のための軍事基地も騎士団も置かれておりませので、ご心配には及びません」

慎重に講師の顔を観察したが、嘘は吐いていないようだった。装っているふうにも見えない。
人は嘘を吐く時、ほんの少しだけ声が高くなるなどの小さな変化が起きる。イザベラは昔から〝声〟に対して敏感で、成長するにつれて、なんとなくそういったことがわかるようになった。

(講師の彼は知らないみたい。なら、国王陛下や軍事関係の者達のところで情報がとめられているのかしら)

水面下、とサムエルは言っていた。表沙汰になるのも時間の問題だろうとも。

(もし表沙汰になったとき、エルゴルは無事でいられるのだろうか)

一応は、裏切りの代償としてイザベラは嫁いできた。しかし、まだ結婚式も挙げていない。妻予定の身分である。
もしエルゴルが商売を持ちかけた西の国とアステートの諍いが公になれば、民衆なり貴族なり、エルゴルに処罰を与えるべきだと声高々に言う者達が出てくるだろう。

(……もしかして、だからなのかしら。いつかは国に帰されるから式を挙げないのだと思っていたけれど)

もしかしたら、西の国との戦争が激化したとき、エルゴルへと向かう非難をイザベラに集中させるためなのかもしれない。そうなったとき、式を終えて正式な王太子妃となっていれば都合が悪いからだろう。
優秀な技術者でもあるエルゴルの王を罰するよりは、娘を盾にしたほうが被害も少ない。エルゴルの父王は、恐らくこれからも銅と鉄とともにアステートになくてはならない存在だろうから。

(そうか、そういうことかもしれない……)

昨夜感じた優しさは本物だったと思うが、政治的戦略とはまた別だろう。

(だって、あの日も、あの人は怒っていたもの)

慰問の日も、一言も話してくれなかった。笑顔もなく、ただ無表情のままで。

(……仲良くなれそうなんて、馬鹿ね、イザベラ)

朝の浮かれた気分が一転して、イザベラは自分の暗い予想に追い詰められていく。
悪い癖だとわかっている。ひとつ悪い要素があると、そこからどんどんいやなことを考えていって、そうして自らが作った妄想の沼にはまり込んでしまうのだ。そうして歌も歌えなくなったようなもので、きっともっと違う自分なら、歌えなくなることなどなかっただろうに、と思う。

(でも、訊けるわけない。私を生贄として差し出す気ですか、などと……)

そもそも、西の国との戦争により国内が荒れれば、裏切ったエルゴルの姫として八つ裂きにされるのは当然ではないか。父王は怒ってくれるだろうが、山脈を隔てたこの遠きアステートの地でイザベラが磔にされたとて、なにができようはずもない。

(そしてあの強い人は、国のために私を差し出す――)

代償として嫁いできたのだから、そういう結末を迎える覚悟も必要だろうとは思う。思うのだが、その結末がフェルナードの手によって描かれたときには、原因を作った父を恨んでしまいそうで怖い。



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