最愛の調べ~寡黙な王太子と身代わり花嫁~
「……姫、イザベラ姫」
西の国とアステート公国との政略図をぼんやりと眺めながら悲しい考えに耽っていたイザベラは、呼ばれている己の名前にはっとなった。
顔を上げれば、サムエルとその後ろにベルが立っている。
「サムエル、どうしましたか」
ぼんやりとしすぎたらしい。先程まで熱弁していた講師の姿すらない。
「随分と呆けていらっしゃいましたが、お加減でも?」
被害妄想に耽っていましたとはいえないので、小さく横に首を振った。
「フェルナード王子が夕食をご一緒したいそうです。夕刻、晩餐室へとお越しください」
喜んで!思わず椅子から立ち上がり、大きく頷いてしまった。サムエルとベルが仰け反っている。
「……わかりました。そのように準備いたします」
慌てて取り繕ったが、しらけた目線を感じたので無駄だったかもしれない。
その後の予定はさくさくと進んでいった。
楽しみがあると、普段いやになることでも楽しくなってしまうものだ。
勉強の合間の歌の練習は、やはりうまくいったとはいえなかった。誰もいないとわかりきっている草原で一人歌ったところで、大勢の前で歌う訓練にはならないからだ。それでも、今まで自分にだけ聴かせてきた歌を大空の下で開放できるのは気持ちのいいことだった。訓練にはならないが、単純に練習になる。
(そうだ、今夜の晩餐で、ピアノを貸してもらえないか聞こう)
初日、もうすこし仲良くなってからと先延ばしにしたお願いである。秘密を打ち明けてもらった今なら、口に出来る気がする。
(くよくよしてても仕方ないわ。そうなったときはそうなったとき。今は、あの人の傍にいられることを噛み締めよう)
被害妄想も激しいが、立ち直りも早いのがイザベラのいいところである。
二年前、人前で歌えなくなってしまった衝撃と比べれば、こんな悲観的思考など大したことではない。
(……私は、どうしてあんな小さな出来事で歌えなくなったのかしら)
いつもそう考えてきた。
あんな些細な罵倒で、あの人に好意的に笑いかけてもらえなかっただけで。
イザベラの父も母も、そして周りの皆も言っていた。
あんな言葉、気にしなくていいんだよ、イザベラの歌は本当に美しくて素敵だよ、聴いていると、とても優しい気持ちになれるんだよ、と。
だから荒れくれ者の罵倒なんて、忘れてしまいなさい。
(いいえ、ただの荒れくれ者なんかじゃなかった。みんな国のために戦って怪我をして、大切な人を守るためだからと、傷が痛むだろうに、笑っていたわ)
そんな勇敢な兵士達に、己の歌を受け入れてもらえなかったのが悲しかったのだろうか。
それとも、そんな兵士達に慕われるあの人に微笑んでもらえなかったのが悲しかったのだろうか。
(あの時聞こえた、〝下手くそ〟なんて、まるで子供がいう悪口みたいなものなのに)
自分でもそう思ってしまう。あんな小さな出来事のなにが、己の中で引っかかっているのだろうか、と。
それでも、今まで褒めそやされてきたイザベラにとって邀撃的な出来事ではあったのだ。
結局、なにが原因なのかと問われても、当のイザベラにすらわからない。
(今わかっているのは、あの時あの人に必要とされなかった私が、今は必要とされているということだけ)