最愛の調べ~寡黙な王太子と身代わり花嫁~
デカンタに沈む夕焼け
『こんばんは』
晩餐室へやってきたイザベラを出迎えたのは、そんな白い言葉だった。
持ち運び用なのか、小さな黒板を手にしたフェルナードが、既に席に着いている。
いつもより早い時間の晩餐で、まだ外は明るい。
日差しの強さが弱まってきた穏やかだが少し物悲しい光の中で、彼は相変わらず美しかった。
金色の髪は柔らかく輝き、夏の緑の瞳は煌いている。服装は、やはり詰襟の軍服だった。
「……こんばんは、フェルナード王子」
言葉をかけてもらえたことが嬉しくて、思考が暫し停止してしまった。
妙にうるさい心臓を服の上から押さえながら、淑女の礼をする。
そうしている間にも、カッカッとチョークの音が響いた。
『どうぞ気楽に。夕食を楽しんでほしい』
美しい文字に頷いて、イザベラは自分が緊張していることに気付いた。
こんなふうに言葉をかけてもらえて嬉しいが、下手な会話で失敗してしまわないかと心配になる。舞い上がって、彼の気に障ることを言ってしまわないだろうか。
「……ご配慮、痛み入ります」
気楽にと言われた傍から堅苦しい言葉を使ってしまった。
フェルナードは少し眉を顰めたが、立ち上がってイザベラのために席を引いた。
慌ててその椅子に座り、膝の上でぎゅっと拳を握る。
どうしたことだ。昼間、彼との時間を楽しもうと決めたばかりだというのに、こんなに緊張していては彼に不快な思いをさせてしまう。
そうこうしているうちに料理が運ばれてきて、それらを見た瞬間イザベラの緊張は吹き飛んだ。
「ムクの実を刻んだサラダでございます」
「ムクの実のソースをあしらった子羊のローストでございます」
「ムクの実を醗酵させて作ったわが国自慢の果実酒でございます」
「ムクの実を乾燥させて焼いたケーキでございます、ムクの実のジャムとどうぞ」
メニューの七割にムクの実が使われている。使われていないのは、パンとアーモンドのポタージュくらいである。
しかも今日は、はじめから料理が並べられていた初めての晩餐のときとは違い、何故か給仕の人間が料理を運んできて、その度に〝ムクの実〟を強調していく。
思わず並べられた料理を見回し、フェルナードを見ると。
思い切り真横を向いて、目線が合わないようにしていた。
「……あの、もしかしなくとも、わたくしが最初の晩餐で、ムクの実が美味しいと言ったから」
素直に礼だけを言っておけばいいのに、どうしても確認したくて訊ねてしまった。
訊ねた途端、フェルナードは耳を赤くして、そして小さく頷く。
色が白いので、耳朶が真っ赤になっているのがよくわかる。つられて、イザベラも真っ赤になってしまった。
それらを、去り際の給仕達がにやにやしながら眺めていったことに気付き、更に顔が熱くなる。彼らが裏でどんなお喋りに興じるかわかりすぎていて、居たたまれなくなった。
『あの時は、何も知らない貴女に大変失礼な真似をしてしまった』
カツカツ、とチョークで呼ばれたので顔を上げると、まだほんのりと赤い頬で、フェルナードがそんなことを言う。
イザベラはそれに対して、ぶんぶんと大きく首を横に振ることしかできなかった。
気の利いたことも言えず、沈黙が落ちる。
『……食べよう』
数秒して書かれた黒板の文字に頷いて、黙々と食事をすることにした。
エルゴルでの食事では、イザベラが語らなくても、父や母、馴染みの炭鉱夫や手伝いの者達が勝手に話を振ってくれていた。なにか話をしなくては、と使命感に駆られたこともない。自分の何倍も喋る者がたくさんいたからだ。だから、自分がこんなに話下手だと知らなかった。
(なにを話せばいいのかしら。そもそも、食事中に話しかけて、フェルナード王子がそれに答えようと文字を書くために食事を中断させるのもよくない気がする)
「フェルナード王子、どの料理もとても美味しいです」
たくさんのムクの実を使った料理も、その料理を出そうと思ってくれたフェルナードの気持ちもただただ嬉しい。
それだけは伝えたくて、イザベラは小さな声でそうフェルナードに伝えた。
それにほんの少しフェルナードが微笑んだことに、イザベラは気付かない振りをした。
そうでもしないと、胸がむずがゆくて嬉しくて、今にも飛び跳ねてしまいそうだった。
『展望台へ』
並べられた料理がすっかりなくなると、フェルナードはそう言って晩餐室からイザベラを伴って外へ出た。
庭を突っ切り、城の森の端に位置する高い塔まで連れて行かれる。その間にたくさんの人々とすれ違ったが、フェルナードは挨拶をされても頷くだけだった。皆も変な顔はしないので、もしかしたら声が出なくなる前からそういった対応をしてきていたのかもしれない。
塔ではかがり火が焚かれ、少し薄暗くなった外でも視界は明るい。
見張りの騎士が三人立っており、その一人から外套を受け取ったフェルナードはイザベラの手を取り塔の中の階段を上がっていった。箱入りのお姫様より体力があるイザベラでも息を切らすほど、長い階段である。石作りの底は冷たく、足先が冷える。
階段は大きな部屋に繋がっており、そこにはソファと火が点けられた暖炉、酒が入っているデカンタが並んだ棚が並んでいた。石畳で冷える床には何重にも分厚い絨毯が敷かれている。暖炉の上の壁に、美しい彫りが施された剣が二本交差して飾られていた。窓はない。この部屋にくるまでも、窓という窓はひとつもなかった。
その部屋の一番奥に、小さな扉がある。
フェルナードがその扉を開けると、冷たい空気が一気に入ってきた。
イザベラの少し赤みがかった髪が乱れ、フェルナードが少し慌てた様子でそれを直す。
なんだかその動作があまりに不慣れで、思わずイザベラは顔を赤くしながらも笑ってしまった。
はじめの印象とは打って変わって、彼はまるで少年のような一面も持っている。
そんな側面を見れたことが嬉しくて、イザベラはふふふ、と上機嫌に笑ってしまった。
『こちらへ』
そう言うように、フェルナードがイザベラの手を引いて扉を潜ると、そこには半円形の、石で作られた無骨なバルコニーがあった。バルコニーというより見張り台だが、大人二人が座れる程度のソファと小さなテーブルが置かれている。
遮るもののないバルコニーから広がる光景は、ただただ息を飲むほど美しかった。
食事を始めた頃はまだ明るかった空も、今は夕焼けに赤く染まっている。遠くに並ぶ赤く染まった山稜。沢山の千切れた雲が空を覆い、陰影を持って夕焼けなかどこかへ向かっている。その中を数羽の鳥達が飛び、暗くなる前にと巣へと急ぐ。それを最後の力を振り絞って照らす太陽の残骸が、今にも山脈に落ちようとしていた。
太陽が沈んで、夜がくる。
その光景は初めて見るはずなのに、イザベラの胸を占めたのは郷愁だった。
どこにいたって、空だけは同じものを見ることが出来る。この美しい夕焼けを、故郷の誰かも仰ぎ見ているだろうか。
「きれい……」
そうして夢中になって景色を眺めているイザベラの肩に、外套が掛けられた。振り返るとフェルナードが立っており、イザベラの外套と同じものを羽織っているところだった。
夕焼けに気を取られて忘れていたが、確かに冷える。ありがたく外套の前を合わせ、フェルナードにお礼を言うと、フェルナードは困ったように眉を下げた。
『貴女には大きすぎた』
そう書かれた黒板に、イザベラは自分を見下ろす。確かに、フェルナードの膝下辺りまでの外套は、イザベラの足首まで覆っている。
「暖かいから構いません。ありがとうございます」
ソファに座るよう促されたイザベラに、小さなゴブレットが差し出された。
『ムクの実のホットワインです。昨日は飲んでいなかったが、これは好いてくれていたようなので』
そんな黒板と共に、フェルナードがイザベラの隣に座る。
少しだけ隙間が空いたその距離が妙に気恥ずかしく、イザベラはゴブレットを受け取りながら口を開いた。
「お酒は、喉をやられてしまうと困るので、あまり嗜んだことがありません」
そうでなくても、滅法弱い。喉をやる前に潰れてしまうだろうが、歌姫として長く生きてきたイザベラにとって、酒は特に必要なものではなかった。そもそも周囲で浴びるように飲む人間が沢山いたので、見ているだけでお腹いっぱいになるのが常で、多く飲むことはなかったのである。
「これはとても飲みやすくて好き」
フェルナードに差し出されたそれを一口飲むと、甘酸っぱい香りと味が口内に広がった。
暖炉で暖めていたのだろう。熱いそれが喉を伝うと、全身がぽかぽかと暖かくなる。
ゴブレットに注がれた赤みがかったワインの表面に、夕焼けが映りこんでいた。
「きれいですね」
それがとても美しく見えて、ほら、と思わず気安くフェルナードにゴブレットを差し出してしまった。
ぽかんとするフェルナードを見て、はっと我に返りゴブレットを掲げたまま固まる。
「あ、いえ、あの、ごめんなさい。夕焼けが映りこんで、とても綺麗だな、と」
夕食でも頂いたムクの実のワインが効いているらしい。酔っ払いらしく気が大きくなって、フェルナードとの距離感を間違えてしまった。
弱り果てているイザベラとゴブレットを見比べていたフェルナードは、おもむろに頷いて、己のゴブレットをイザベラのそれとこつんとぶつけた。
『私もそう思う』
ほんの少しの笑みで書かれた黒板。
それを見て、イザベラの顔は沸騰しそうだった。
二回である。
今日で二回も、フェルナードの微笑を見ることができた。
とんでもない幸福を得られたようで、イザベラは祝杯を挙げるかのごとくワインを飲み干そうとゴブレットを傾ける。
それを慌ててとめようとしたフェルナードには気付かず、勢いよくゴブレットを空にしたイザベラは満足げに息を吐き出した。
「ふふ」
頬が熱い。酔っ払っている。
「ふふふ」
だめだ。危ない。こんな醜態を彼に見せるわけにはいかない。
理性がどこかでそんことを叫んでいるが、ふふふ笑いをとめるほどの力はなかった。
呆気に取られていたフェルナードは、やがて堪えきれないというように吹き出した。
それを見てイザベラが一層嬉しそうに笑うので、フェルナードは笑いを治めることができない。
「それ、貸して」
酔っ払ったイザベラが口を開くと、唐突に敬語が抜けた。
さすがのイザベラも、敬語が抜けてしまったことは理解できたが、何故抜けから悪いのかと考えつく前にムクの実のホットワインが邪魔をする。
イザベラはにこにこ嬉しそうに笑いながら、フェルナードが持っている黒板を指差した。
「あ、借りてもいいでしか?大事なものよね」
今度は混ざってしまった。
そのちぐはぐな語り口調が新鮮だったのか、フェルナードは素直に黒板を酔っ払いに差し出した。もとより、貸して困るものではないようである。
イザベラは黒板に括り付けれたチョークを持つと、カツカツと覚束ない手付きで文字を書き始めた。
それを横からフェルナードが覗き込む。
『あなたの字はとてもきれい』
『戦うのも得意で字もきれいなんて、ずるいわ』
『そうでなくても、あなたはきれいなのに』
『舞踏会で、エルゴルの曲を流してくれて嬉しかった』
『ムクの実、とても美味しい』
少しゆがんだ文字が綴られるたびに、フェルナードは律儀に黒板の端に返事をした。
ありがとう、そうでもない、男にとってきれいは褒め言葉じゃない、喜んでもらえて嬉しい、今度、一緒にムクの実を採りに行こう。
フェルナードも、酔っ払いを相手にしている気安さで応える。
それらの返事が嬉しくて嬉しくて、イザベラからふふふ笑いがとまらなくなった。
そうしてお互いに返事をしあっているうちに、すっかり外は暗くなってしまった。