最愛の調べ~寡黙な王太子と身代わり花嫁~
太陽が沈めば、あっという間に夜になる。
これもエルゴルと変わらないことだ。そんな当たり前のことが、酔っ払いイザベラには嬉しかった。きっと酔っ払ってなくても、嬉しかったと思う。
フェルナードが慣れた手付きでかがり火を四つ灯すと、バルコニーは一気に明るくなった。
美しいフェルナードは、かがり火にも映える。
「ありがとう。もっとくっつこう、寒いね」
その頃には更に酒も進み、イザベラに至っては完全に家族に対するような喋り口調になっている。
酔っ払いは酔っ払いなりに何かが間違っていると認識はしているが、もはや何が間違っているのかも判断できない状態である。
その砕けた口調に、今の今まで、相当気を張ってエルゴルの姫として発言していたのだとわかり、フェルナードは複雑な気分になった。
そんな一面を見せてくれて嬉しくも感じるが、酒の力を借りている自分が情けなくもある。
そんな心情など露知らず、酔っ払いはにこにこしながら頭上を指差した。
見上げれば、無数の星が散らばっている。
あのひとつひとつに名前をつけている変わり者の学者がいるのだと、昔、吟遊詩人から聞いたと、イザベラは舌足らずに話をした。
うろ覚えの星の名前を口にしながら星空を眺めていたイザベラが、ふと黒板を手にする。
『あなたの声を、一度でいいから聞いてみたかった』
書かれて、フェルナードの心臓がどくりと脈打った。
『……普通の声だが』
動揺を悟られないようにそう書いたが、イザベラは困ったように笑った。
ただ笑っただけだった。
そこで会話は途切れてしまい、フェルナードは弱り果てる。
陽気な酔っ払いがおとなしくなると、周囲の気温も一気に下がった気がした。
『……貴女は、いつから歌を?』
だから、苦し紛れに、そんなことを訊いてみる。
イザベラは考え込むように顎に手を当てると、やがて五本の指を立てた。
『五年前から?』
「ううん、五歳」
イザベラはけろりと答える。
きっかけは、炭鉱夫に褒められたからだった。
お前の歌は優しいなあ、と炭鉱夫の男達に褒められてから、嬉しくて嬉しくて一生懸命練習した。体を張って国を支えてくれている彼らに褒められたことが、王族としてとても誇らしかった。
だから幼かったイザベラは、自分が彼らになにを返せるだろうかと考えたのだ。
「私が美味しい食事を頂けるのも、新しく清潔な服を着れるのも、彼らが一生懸命働いてくれるお陰だと、小さい頃から父に言い聞かせられてきた。そんな彼らに褒めてもらえたことが嬉しくて堪らなかった。彼らに、私はなにを返せるだろうかと考えたとき、単純で恥ずかしいけど、彼らに褒めてもらった歌でお返しをしようと考えたの」
子供ね。言いながら、あまりの幼稚さに恥ずかしくなった酔っ払いは、思わず顔を俯けた。
そんなイザベラの隣で、チョークの音が響く。
『そのように教えるあなたのお父上も、そしてそれを素直に受け取れるあなたも、とても優しく、素敵だと思う』
素敵なのはあなただわ、と言いたかったが、嬉しすぎて胸がいっぱいになり、言えなかった。
熱に浮かされるようにフェルナードを見つめていると、彼のほっそりとした指がチョークを取る。
『……いつか』
黒板に書かれた言葉は、そこで途切れてしまった。
それを覗き込みながらイザベラは首を傾げたが、フェルナードは少し考え込んでからその言葉を布で消した。
『もう休もう』
〝いつか〟の続きが知りたかった。
けれどフェルナードが困ったように笑うので、イザベラはそれ以上何も言えなかった。
酔っ払いに躊躇させる程度には、美しく一線を引いた微笑。
(……いつかあなたが、本心から私と向き合ってくれる日はくるのかしら)
暗く青い空に、白い月がぽっかりと浮かんでいた。