最愛の調べ~寡黙な王太子と身代わり花嫁~
二日酔いと見舞い
「昨夜はお楽しみだったようですね」
詰襟の止め具をはめたところでそう言われ、フェルナードは視線だけをサムエルに向けた。
昨日の朝となんら変わらぬ服と髪型と顔色で、サムエルはそこに立っている。
カーテンの開けられた窓から朝日が注ぎ、鏡が少し見やすくなった。
「眠ってしまったイザベラ姫を抱きかかえてお部屋までお送りになったとか?目撃した者達が大騒ぎでしたよ。話しかけても愛想笑いしか返さない、女には鉄よりも冷たいフェルナード王子が、裏切り者の姫にご執心だとかで」
もうそんな噂が立っているのか、それともこの従者の耳が早いのか。
フェルナードは黙って腰に剣を佩いた。刀身の短いそれは、乗馬するときに使う。
「別に構いませんけどね。あまり近づきすぎるのもどうなんです?下手に懐いてこられると困るのは、あなでしょう。裏切り者の姫なんか放置でいいんですよ。律儀に構ってやらなくても、あの姫なら節度を守って歌姫に徹してくれるでしょう。思ったよりも立場を理解されていらっしゃるようでしたから」
構わないと言いながら不満だらけである。
フェルナードは靴紐を結びなおした。
「歌姫としてなるべくセンセーショナルにデビューしてもらいたいところですよね。一昨日の舞踏会でそれができたらよかったんですが、あなたが中止しろなんていうから……まあいいです。群集の心をぐっと掴むような場面を作って、そこで歌ってもらえば効果抜群ですからね」
要は西の国に勝利するまでの時間つなぎである。
その間、姦計を巡らす貴族達の意識をフェルナードからイザベラに移せればいい。
「……ああ、そういうことですか。そうですね、あなたがご執心ともあれば、皆の視線がイザベラ姫に集中するのも当然。難攻不落のフェルナード王子より、彼女に近づこうとする者も少なくないはず。そうすれば、その間あなたは自由に動けるというわけですね」
フェルナードが声を失ってから、サムエルは自己完結する癖を身につけた。フェルナード付きの側近になってまだ日も浅いが、どんなことでも利益優先の考え方でもって主人に仕えている。
「でも、気をつけてくださいね。表向きは和平の象徴としてイザベラ姫を娶ることになっていますが、エルゴルの裏切りを知る者たちはまだあの国を許しておりません」
お前はあの人の歌を知らないから――。
そんなことを言っていられるのも今のうちだと、フェルナードは心の中で溜め息を吐いた。
矢継ぎ早に話をするサムエルに、文字で対抗しようなどとは思わない。
なにより、自分の一番の側近が〝そういう考え〟であることは、フェルナードにとっても有益だった。
「え、次の休みですか?そうですね、三日後、公務の後に空きがございます。午後はまるまる空けられるかと」
フェルナードの口の動きだけで言葉を読み取ったサムエルが、胸元から小さな羊皮紙の束を取り出して確認している。
「その午後にイザベラ姫と過ごされるんですか?……構いませんが、私が先程話した内容はご理解いただけていましたかね」
慇懃無礼なところも気に入っている。
嫌味を言いつつも、その通りに予定を組むだろう側近に、フェルナードは満足げに微笑んだ。
「……なんてことなの」
フェルナードが朝の準備を終えて騎士団へと向かった頃。
イザベラは自室のベッドの中で文字通り頭を抱えて悶絶していた。
「飲みすぎです。ムクの実のワインは口当たりが良いのでつい多く飲みすぎてしまいがちですが、姫様のは完全にそれでございます」
ベルに白い目で見られながら、差し出されたゴブレットの水を飲み干す。
そのまま頭をシーツに埋めて突っ伏したイザベラを、さすがのベルも心配したらしい。おぼつかない手付きでイザベラの背中をゆっくりと撫でてくれた。
「記憶はありますか?」
あるから困っているのである。
昨夜、飲みなれない酒を調子に乗って飲みまくった挙句、フェルナード王子にどんな態度をとったかなんて――。
(覚えてなくてよかったのに……)
このアステートでは、姫らしい姫でいようと決意して山脈を越えてきたのに。
(どうしよう。知られてしまった。私がまったく姫らしくないことを)
炭鉱夫やその家族達とどんちゃん騒ぎは当たり前、お客様の前でなければ敬語も使わない、マナーも基礎は叩き込まれているが重要視していないし、王子との晩餐に舞い上がって酒で我を忘れてしまうような女であることを。
しかも、あの美しいフェルナードに馴れ馴れしい態度をとり、彼の大切な黒板を横取りし、挙句の果てに彼の肩に頭を預けて寝てしまった気がする。
そういえば、その後どうやって自室に戻ったか覚えてない。
「……ベル、私は昨日どうやって部屋まで戻ってきたのかしら」
「フェルナード王子が抱きかかえて連れてきてくださいました」
淡々と答えたベルに、イザベラは悶絶してベッドから落ちた。
その日は散々だった。
二日酔いが酷く、勉強も歌の練習もなにもできず、ただベッドの中でベルの小言を子守唄に目をぐるぐる回して終わった。
挙句の果てには、二日酔いで寝込んでいるイザベラの話を聞きつけたフェルナードに見舞われてしまった。
できれば会わないで済ませたい。
昨夜の馴れ馴れしい態度を謝りたい気持ちもあるが、酒の力で近づいた距離も、今日はきっと離れているだろうことを、目の当たりにするのが辛かった。
「王子でもそれは許しかねます。イザベラ姫は今ベッドで横になられているのです。お休みの邪魔はなさらないでください」
分厚いカーテンの向こうで、ベルの声がする。
そのあとすぐに、カツカツと黒板に文字が書かれる音がした。
「寝顔なら昨日も見ている?そういう問題ではありません。イザベラ姫は今日一日横になっていたため、お洋服も御髪も乱れた状態なのです。そのような姫を王子に会わせるわけにはいけません」
ベルの言葉に、慌ててベッドから飛び降り姿見の前へと向かう。皺だらけになった寝巻着のワンピースを必死で伸ばしてから、ぐちゃぐちゃに乱れた髪を直す。
会うわけでもないのに、あまりに自分が姫らしくなく、必死になってしまった。
この時点で既にイザベラの気力はなくなりかけていたが、更に追い討ちを食らう。
「結婚するんだから問題ないのでは、じゃありません!少しは女心を学んでください」
もうやめて欲しい。
羞恥やらなんやらで、イザベラはその場に蹲った。
「あ、王子……こら!!」
ベルの怒鳴り声がしたと思ったら、分厚いカーテンが音を立てて引かれる。
思わず振り返ると、そこには短い剣を佩いたフェルナードが部屋へと入ってくるところだった。
「ひっ」
思わず喉の奥から悲鳴が漏れた。
フェルナードは今日も麗しい。太陽も逃げ出す美しさだ。だというのに、一応婚約者である自分のこのみっともない姿はどうだ。
フェルナードは絨毯の上に蹲っているイザベラを見て目を見開くと、歩幅を大きく開いて近づいてきた。
「あ、あの、フェルナ――」
言い切る前に、イザベラはフェルナードの手によってベッドへと戻されていた。
優しくベッドの上に寝かされたかと思うと、上からブランケットをかけられ、寝床を整えられる。
訳も分からずおろおろしていると、素早く文字が書かれた黒板が差し出された。
『具合が悪いと聞きました。何故休んでいないのです』
具合が悪いというか、二日酔いである。
「あ、あの、えっと」
イザベラがなんと答えるべきか迷っていると、フェルナードははっとした様子で再び黒板に文字を書く。
『私が昨日、酒を勧めたばかりに……。申し訳ない』
「ちがう!」
予想外の謝罪に、イザベラは大きな声でそれを遮ってしまった。
「謝らないで。私、昨日、とても楽しかった。二日酔いは自業自得だわ。あなたとの距離が縮まったような気がして、嬉しくなって調子に乗った私がいけない……のですわ」
危ない。また昨日の名残のまま喋ってしまうところだった。しかも勢いに任せて、要らぬ本音まで暴露してしまった気がする。
何故かフェルナードはなにも言わない。というか、書かない。
呆れているだろうか。
いきなり落ちてきた沈黙に、イザベラは恥ずかしさのあまり顔を上げられなくなってしまった。
「……お二人とも、そういうのはお二人だけのときにしてくださると助かります」
別の角度から呆れきった声が聞こえて、イザベラは更に顔が熱くなる。
「こっちまで釣られて赤面しそうです」
そんなに赤い顔をしていただろうか。していたかもしれない。
あの恥ずかしい本音をベルにまで聞かれてしまったことが恥ずかしくて、イザベラはこのまま消えてしまいたくなった。
「……ご、ごめんなさい」
とりあえず謝ってみる。
と、暫く聞こえなかったチョークの音が響いた。
『それこそ謝らないでほしい。私も昨夜は楽しかった』
そういう意味の謝罪ではなかったが、フェルナードが少し赤い頬でそう言ってくれたことで何もかもがどうでもよくなった。
思わずフェルナードを見つめると、ぱちりと音を立てて目が合った。
『それと、二人でいるときは言葉は飾らないでほしい』
フェルナードの森のような瞳が、イザベラをまっすぐ貫いている。
(息ができない)
まるで水の中のいるかのようにイザベラの喉は息をするのをやめてしまい、挙句に心臓が痛いくらいに脈打っている。
二日酔いの症状でもなんでもない。
こんなの、おかしい。
それでもその息苦しさは心地よかった。
まっすぐに見つめてくるフェルナードに、イザベラは思わず心臓を庇うようにして胸の前を手で覆った。
なにもかもが見透かされていそうで、こわい。
あの美しい瞳の中に吸い込まれていきそうで、そうしたらきっと、今よりずっと苦しくなって、そして幸福になれる――。
「私の先程の言葉を覚えていらっしゃるでしょうか」
イザベラがフェルナードの瞳しか認識できなくなった頃、心底から呆れかえった声が聞こえてきた。
見れば、ベルが無表情でイザベラとフェルナードを見ている。
再び沈黙が降りた。
イザベラもフェルナードも、何を話そうにも話せない。恥ずかしすぎて。
「王子、イザベラ姫の顔は見れたのですから、もうお部屋にお戻りください。姫は今から湯浴みの時間です」
そう言われれば、退出するしかないのだろう。
フェルナードはイザベラの髪を慣れた手付きで梳いていくと、小さく微笑んでから部屋を出て行った。
「……ベル、今のは本当にフェルナード王子だった?なんだかいつもと違ったようなのだけど。夢でも見ていたのかしら」
梳かれた髪を思わずくしゃりと握りつぶして、赤い顔でベルを見る。
あんな甘い仕種をするような人だったろうか。昨日の時点ではまだ、やることなすことにお互いぎこちなさがあった気がするのに。
「夢であんな気持ち悪いものを見せられるなんてたまったもんじゃありません。――昨夜、運んできた姫をベッドに寝かせてからも、暫くああして髪をいじってらっしゃったので、そのせいで馴れ馴れしくなったのでは」
ベルがとんでもなく不敬なことを言っているような気がしたが、今のイザベラは気にならなかった。
髪を梳いていった指が綺麗だった、とぼんやりと思う。
「フェルナード王子は、お優しい方だわ……」
「あれはむっつりと言うのです」
フェルナードに関しての認識は、イザベラとベルの間では分かり合えない溝があるようだった。