最愛の調べ~寡黙な王太子と身代わり花嫁~
ロセ・ファン伯爵
そう決意した翌日、イザベラの部屋に訪問者があった。
ステラ嬢の父親、ロセ・ファン伯爵である。
急な訪問とのことで、ベルとしては断りたかったようだが、ここで断るとイザベラの立場が悪くなると渋々了承したらしい。
ロセ・ファン伯爵家といえば、このアステート公国の歴代宰相を務めてきた名門中の名門貴族である。何代か前にはアステート王族の姫を迎え入れるなどしており、かなりの権力者である。
格で言えば、ともすればエルゴルの王族イザベラより上かもしれない、と、イザベラは考えた。
自分を卑下するわけではないが、エルゴルとアステートでは国力にそれだけの差があるのである。
「この度の娘の無礼、謝罪に参りました」
深々と下げられた頭は白髪交じりで、年若いステラ嬢の父親というには高齢のように思う
ステラ譲と同じ青色の目尻には、理知的な皺が刻まれていて、仕立てのよい服を隙なく着こなしている。
すぐに馳せ参じたかったというが、多忙な宰相を務めている男である。わざわざ裏切りの姫のためにこの時間を割くことも難しかっただろう。なにせあの舞踏会のときですら挨拶にはこなかった。
王の傍に控えていたような気もするが、あのときは緊張していて王と王妃の顔以外覚えていていない。
「気にしておりません。ステラ嬢にもそのようにお伝えください」
重厚なカーテンのような声だな、と思った。
感情を表に出さず、己の思考をそのカーテンの奥へと隠してしまうような。
「イザベラ姫の広いお心に感謝致します。年がいってからできた娘で、少々甘やかしすぎました」
苦笑すると目尻の皺が深くなる。
一歩対応を間違えば恐ろしいことになりそうな相手だが、娘が可愛いのは本当らしい。
「年相応で可愛らしい限りです」
イザベラは仮面のように笑いながらそう言った。
恋の成就のために行動するステラ嬢には感服するが、他人を貶めようとする行為は許せるものではない。
とはいえ、イザベラは許しませんといえる立場でもないのだ。
所詮は裏切りの代償としてやってきた人質である。
王族という立場を重んじられてはいるが、イザベラの我が通るような場所ではない。
事前の断りもなく訪問してきた彼を受け入れざるをえない程度には、イザベラのここでの地位は低い。
だからといって従いすぎてもよくない。
寛容な姫を演じて無礼を許すことにして、恩を売る形でいい。
にっこりと微笑みながら形ばかりの茶を勧めると、多忙な宰相はそのカップへと手を伸ばした。
どっしりと椅子に腰掛け、早々に出て行く様子ではない。
(形ばかりの謝罪にきたと思ったけど、違ったの?)
大国アステートの多忙な宰相殿である。
(こんな小国の姫とお喋りをするような人間にも見えないけれど)
イザベラが真意を量るように見つめていると、それを見つめ返しながらロセ・ファンが口を開いた。
「……イザベラ姫は、西国に興味がおありだとか」
唐突に言われたそれが予想外すぎて、イザベラは思わず小さく口を開けた。
「平素の授業とは別に、随分と熱心に聞き入っていられたようですな」
もしかしなくても、先日の勉強会のことを言っているのだろうか。
あの日は前日に、フェルナードとサムエルから西国との交戦を聞いたばかりだったからだ。
それがまさか、そんな風にとられていたとは。
確かに、イザベラと西国は結び付けてしまうとかなり危険な構図になる。
イザベラの国エルゴルがアステートを裏切って手を組もうとしたのは、西国なのだから。
実際は輸出国を増やそうとしただけの行動だったのだが、それを言ったところで何人の人間が信じるか。
(問題は、あの講師がロセ・ファン様側の人間だということだわ)
あの講師を通じて、イザベラの授業態度がロセ・ファンに筒抜けであるということは、この男がイザベラの行動を注視しているということだ。悪く言えば監視である。
「……そうでございますね。興味がないと言えば、嘘になるでしょう」
イザベラははっきりと言い切った。
それを聞いたロセ・ファンが、眼光を鋭くする。
矢で射抜かれるような視線に思わず怯みかけるが、イザベラは拳を握って耐えた。
一言も発さないフェルナードに、一生懸命話しかけたあの晩餐の夜のほうが、よほど勇気が要った。
「我が父の行いに関係する国でございます。わたくしが山脈を越えることになった原因となった国に、興味を持たないはずがありません」
父の行い――決してエルゴルの王は、故意に裏切ったわけではないとやんわりと伝えておく。
決してあなたが考えているような〝興味〟ではないと断言した。
「……それに、アステートと西国では長きに渡る確執があると聞いております。フェルナード王子の婚約者として、西国について学ばなければと思ったのです」
その確執がまだ続いていると知らなかったからこそ、父王は失敗した。
ロセ・ファンが探るように見つめてくる。
イザベラもここで目を逸らしてなるものかと、笑顔を浮かべたままじっと見つめ返す。
こうなると睨めっこの境地である。
母国の子供達とよくやったな、と思い出しながら、明ける前の夜空のような瞳をじっと見つめ返した。
「……左様でございましたか。勉強熱心なのは良いことです」
そうしてその睨めっこは、先に視線をそらしたロセ・ファンにより終わりを迎えた。 イザベラの小さな勝利である。
「ぜひとも、我が国についてもっと知っていただきたい」
そして余計な真似はするな、と。
明言しないが、なにを言いいたいかはよくわかる。
「少々時間が推しましたな。それでは姫、またいつか」
言いたいことを言い、聞きたいことを聞いて、ロセ・ファンはさっとソファから立ち上がると優雅に一礼した。
自分にどれだけの振る舞いが許されているかわかっている人間である。
去るのも唐突だが、去るのも唐突である。
「二年前の姫の歌を覚えております。またぜひ、お聴かせ願いたい」
大人の微笑と共に、強力な爆弾を落としてロセファンは部屋を出て行った。
(最後のあれ、嫌味かしら)
思わずそんなことを思ってしまうくらいには、イザベラの自己評価は低い。緊張したせいで喉が渇いた。
「イザベラ様、大丈夫でございますか」
新しく注がれた茶を手に、ベルが無表情で顔を覗き込んでくる。
はじめは睨まれているのだと思っていたそれも、少しだけ仲良くなった今なら彼女が心配してくれているのがわかる。
「……私の対応はあれで間違っていなかったかしら」
問えば、ベルはまじめな顔をしてこっくりと頷いた。
(最初に考えた意味とは違うけれど、ベルはきっと私の監視役なのだわ)
あのフェルナードと付き合いが長いという彼女をどうしてイザベラにつけたのか――つまりはそういうことなのだろう。
こういった事態に陥ったとき、イザベラがぼろを出さないか見張り、いざというとき助けに入れるように。
「あなたには苦労ばかり掛けるわね……」
イザベラの侍女につけられたばかりに、申し訳ないばかりである。
「姫から掛けられた苦労などありません。あなたは一国の姫君として無欲すぎます」
大真面目な顔でそんなことを言われてしまった。
「小さな国の姫なんてそんなものよ。欲しがったことがまだないだけ」
餓えることも凍えることもない恵まれた環境に生まれ育ったイザベラの中で、そういった欲は育まれなかった。
基本倹約の国であったので、周囲の人間も今あるものを大切にして生活する者ばかりで、自滅するほどの贅沢など望みなど抱いたことはない。
だが、この先はわからない。
(だって恋を知ってしまった)
あの美しい人を欲しいと思うのは、おこがましい限りである。
(それでも、フェルナード王子との時間を少しでも共有できたらと思ってしまう)
次はいつ会えるだろうか。
自分は彼の盾になるべく宛がわれた姫で、本当の婚約者ではない。
(私から会いたいなんて、言えないわよね……)
距離が縮まったかと思えば、イザベラから更に近づくことは相当に難しい相手なのである。
彼から会いにきてもらえなくては、顔を見ることも叶わない。
思わず溜め息が漏れる。
そもそも、こんなことで頭を悩ませている場合でもない。
エルゴルの使者が姿を消して、明日で五日目になる。
なにもイザベラも、何の根拠もなく五日、と言ったわけではなかった。
今回、使者の役を買って出てくれた執事長から、昔から教え込まれてきた五日という数字。
『もし私が姫との約束の場に五日経っても姿を現さなかったら、その時は探してください。鉱夫や王に助けを求めてもよろしいでしょう。私が生きて動くことが可能ならば、五日までに必ず姫の下に参ります』
歌姫としていろんな国を行脚していた頃、供をしてくれていた彼にそう言われ続けてきた。
そしてどんなことがあっても、彼は五日経てばイザベラのもとに戻ってきてくれたのだ。
明日姿を見せなければ、捜索隊を出すことになるだろうが、やはりどうしたって、心配していない。できない。
幼いころからの刷り込みというやつだろうか。
彼だって人間だとわかっているものの、彼が倒れる姿を想像できなかった。
(明日はきてくれるかしら)
そうして青空が美しい窓の外を眺めていると、フェルナードから遠乗りの誘いがきているとベルから伝えられた。
執事長のことなど薄情なイザベラの頭から吹き飛んだ。