最愛の調べ~寡黙な王太子と身代わり花嫁~






(勘違いもいいところだわ。裏切りの代償として連れて来られた人間がなにを言っているの。彼が優しくしてくれるからと、踏み込まなくていいところまで踏み込もうとして――)

羞恥心で顔が赤くなる。
できれば埋まりたい。すぐそこの湖に飛び込んで魚の餌になってしまいたい。
なにより、フェルナードから反応がないのが怖い。


「……も、申し訳ありません。出過ぎた真似を」

震える声は続かなかった。
包まった外套ごと、まるで荷物のように持ち上げられ、彼の膝に乗せられる。
東屋の天井が見えた。蔦が絡まっている柱が目に飛び込んできて、次にはフェルナードに抱きつかれていることに気付く。

「ふぇ、ふぇ、フェルナ――」

脇から背中に腕を回され、まるでイザベラの肩に縋るように抱きつかれている。首筋に彼のぬくもりを感じる。肩が上下するたび、吐息を感じる。

震える声でわかりやすくうろたえれば、静かに、とでも言うように腕に力を込められた。

心臓がかつてない速さで脈打っている。
どこかで鳥の鳴き声が聞こえて、ぽちゃりと湖でなにかが跳ねた。
遠くで双子達がお喋りに興じているのが聞こえる。

――それよりもずっと、フェルナードの息遣いが近い。

イザベラは恐る恐る、フェルナードの背中に手を回した。

苦しいくらいに抱きしめられている。その力んだ身体を包み込むようにそっと抱きしめ返す。
厚手の服の下に、逞しい肉体を感じる。それが脈打っている。
少し勇気を出して、左肩に預けられている彼の頭に、頬を寄せてみた。
柔らかな金髪から露出した耳が、とても熱い。
そうしてイザベラの熱くなった頬とフェルナードの熱い耳が触れ合って、じわりと体温が溶けていく。
嫌がられはしなかった。むしろ、抱きしめる腕に力がこもる。

(わたし、今、彼に触れてる……)

そんなことがとても新鮮で、不思議で、嬉しかった。



「雨……」

暫くそうしていると、ぽつぽつと湖に雫が落ちる音が聞こえてきた。
少しだけ顔を動かして東屋の外を見ると、小雨だが雨が降り出してきている。
その勢いは少しずつ増して、心配した双子が城の小窓から顔を出したが、イザベラとフェルナードの状態を見て、慌てて引っ込んだ。

まさか目撃されるとは思っていなかったので、恥ずかしさのあまりフェルナードに隠れるように強く抱きついてしまった。フェルナードの大きな体がびくりと跳ねる。
跳ねたが、離れたりはしなかった。

さあさあと優しい音がする。
小さな東屋が、まるで小さな家のように、そこだけ雨から守られていた。

(わたしも彼を守れたらいいのに。剣を握るような守り方じゃなくて、彼を濡らそうとする雨から彼を庇うような、そんな守り方ができたらいいのに)

なんて過ぎた願いだろう――。

フェルナードの体温を感じながら暫くけぶる景色を眺めていると、フェルナードが少しだけ身じろぎした。
慌てて背中に回していた手を離すと、真横で触れ合っていた顔がゆっくりと離れていく。

(終わってしまう)
夢のようなひと時だった。
イザベラがこれから歩む長い人生の中での一瞬にも満たないような、一番の幸福のときだった。
密着していたフェルナードの体が離れると、外套に包まれて暖かい筈なのに、とても寒く感じた。

「あの、フェルナ――」

恥ずかしさと寂しさで、思わず口を開いたイザベラの両手に、フェルナードがそっと触れた。
右手は左手に、左手は右手に、包まれるように触れられて、ゆっくりと持ち上げられる。
その手の動きを見守っていると、いつの間にボタンが外されたのか、詰襟から喉の傷が覗いていた。

(あ)

あの夜、彼と交わした会話を思い出す。

〝――今はもう痛みはないが、雨の日などは少しじくじく痛むこともある〟
〝――妻に歌ってもらいながら温めてもらうと、痛みなど吹き飛ぶと皆言っていました〟

そんな話をした。人の手で温めると、痛みが軽減するのだと。
そう口にしたイザベラに、彼はなんと言った?

〝――では次に痛んだときは、貴方にお願いする〟



(うそ)

イザベラが考える間もなく、優しく掴まれた腕が彼の傷へと導かれていく。
フェルナードの新緑の瞳が少し緊張して、けれど大真面目な眼差しで、イザベラを見つめている。
雨の音もなにも聞こえなくなった。
一切の音が消えて、フェルナードの手のぬくもりと、瞳と、痛々しい傷跡だけがイザベラの世界を占める。

(例えお役ご免でエルゴルに帰らされてもいい。妻になれなくても、彼の傷を温めることを許されたのなら――)

つい先程、一番の幸福のときがきたとばかり思っていたのに。

(どうしよう。今日は幸福が多すぎて、抱えきれない)

そうしてイザベラの手が、フェルナードの手に導かれて彼の傷口に触れそうになったときだった。


「きゃあっ」

掴まれていた手を勢いよく引っ張られて、ソファに押し付けられる。たくさんのクッションのお陰で痛みはなかったが、突然のできごとに理解が追いつかない。

慌てて顔を上げると、フェルナードが立ち上がってイザベラに背を向けていた。

その背に、緊張が走る。
フェルナードが腰に差していた短い剣を抜いた。乗馬用の短剣とはいえ、立派な剣である。鈍く光るそれはよく手入れされていて、なによりその装飾の少なさに、彼が普段実際に使っているものだとわかる。

それを抜くということは、それを向ける相手がいるということだ。

フェルナードの大きな背中に庇われて見えないが、確実に彼の前に〝何か〟がいるらしい。
雨のせいで気付くのが遅れたのだろう。
フェルナードは苛立たしげに舌打ちすると、短剣を東屋のテーブルに叩きつけた。テーブルの装飾につかわれていた金属と短剣がぶつかり合い、鈍い音があたりに響く。
それを合図に、既に剣を構えた双子が素早く城から飛び出してきた。

「王子、残念でしたね」
「まさかあそこで侵入者に邪魔されるとは。俺達も予想外でしたよ~」

軽い。雨に濡れることも構わず、二人はけらけらと笑っている。
しかも隠れてすべて見ていたと言っている。イザベラは一瞬状況も忘れて羞恥に悶絶した。

「その顔、姫には見せないほうがいいですよ」
「いつもの凶悪なフェルナード王子に戻っちゃってますから」

そんなことを言い合いながらも、双子が緊張しているのが伝わってくる。
いつもより声が硬い。
フェルナードも双子も相当なてだれだと聞いている。
そんな彼らが緊張するなんてよほどの相手ではないのか。

「しかし大きいなあ。まるで熊みたいだ」
「最近噂の山賊か?今日はお仲間はお留守番かよ」

双子がじりじりと間合いを取りながら敵に話しかけている。
そうしながら切り込む好機を狙っているのだろう。

「フェ、フェルナード王子――」

イザベラが不安のあまり、フェルナードの名前を思わず呼んでしまったとき、フェルナードに引き寄せられた。
剣を構えながら、安心させるように片腕で抱き締められ視界が開ける。

「そうですよ王子、今日は姫がいますからね」
「大熊は俺達に任せて、王子は姫をお守りください」

双子がそんなことを言っていたが、イザベラはまともに聞けなかった。
フェルナードが前から退いたお陰で、彼らが対峙していた〝大熊〟が見えたからだ。
はじめはけぶる雨でなにか黒くて大きなものが立っているようにしか判別できなかった。

〝それ〟は、泥に汚れた外套を羽織っている。太い脚に太い腕。その背はイザベラの二倍はあろうというほど高く、薄汚れたシャツの上からでも、筋骨隆々の肉体が見て取れる。左手には装飾のない無骨な剣を構えている。外套にはフードがついていたが、それは被られず後ろに垂らされていた。

初老の男だった。
白髪を後ろに撫でつけ、髪と同じく白い無精髭が顔を覆っている。ともすれば上品そうな顔立ちだが、その眼光だけは鋭く、まるで本物の獣のように見える。


「――」

イザベラは絶句した。

そして次の瞬間には、フェルナードの腕から転がり出て、〝大熊〟に突進していた。
フェルナードが上げた声なき叫び声も雨の音に掻き消される。

〝大熊〟が、自分へ突進してくるイザベラを認め、構えていた剣を投げ捨てる。
双子が目をひん剥いたのを横目に、イザベラは目一杯の声で叫んだ。

「ミカエル!!」

叫んだと同時に、〝大熊〟こと〝ミカエル〟が、その大きな口を開いく。

「おひい様!!」

まるで大型動物の咆哮だった。
ミカエルは転ぶように駆けてきたイザベラをその大きな体躯で受け止めると、すぐさま外套を脱いでイザベラの頭に被せる。

「雨の中に飛び出してくるなど、なんという無茶を……。お風邪を召されたらどうするのです。あなたの大切な体を、あなたが大切にしてあげなくてはなりませんよ」

先程まで餓えた獣のようだった眼が、今は穏やかに光り輝いている。
イザベラはそんなミカエルへ嬉しそうに微笑んだ。

「よかったミカエル。あなたが無事で」
「心配などなさっていなかったでしょう」

ミカエルが片目を瞑りながらそんなことを言う。それに素直に頷いて、イザベラはまた笑った。
フェルナードと双子は固まったまま仲睦まじく笑いあう二人を、呆然と見守っていた。





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