最愛の調べ~寡黙な王太子と身代わり花嫁~
こいがたき
「ご挨拶が遅れました。エルゴル城の総執事長を勤めております、ミカエルと申します」
城の中に入り、水で汗と汚れを流して着替えたミカエルはすっかり執事然となっていた。
無精髭もきれいに整えられ、顔だけ見れば壮年の執事、といったところである。
ただ、異様に体躯が大きい。筋肉の隆起が服越しでもわかる。この城に置いてあった着替えでは小さすぎたのでミカエルが持参した服を着ているのだが、それでも盛り上がった筋肉にボタンが弾け飛びそうな有様である。イザベラと並ぶとまるで大人と子供だ。
「この度は参上が遅れてまことに申し訳ございません」
暖炉に火を入れ、それぞれが落ち着いた頃、ミカエルは完璧な所作で挨拶をした。
「……もしかして例の、行方不明になってたエルゴルの使者」
ジェフがいまだに呆然としたままそんなことを言う。
それを受けて、ミカエルは神妙に頷いた。
「そうですな。ご迷惑は承知で、あえて行方不明という形を取らせていただきました。アステート公国に入ってすぐ、山賊に襲われ、この山賊がいつかおひい様にも危害を及ぼすのではと考えたらいてもたってもいられず。山賊の根城に潜入し、いろいろ調べてまいりました」
などと平然と言うので、双子は大興奮でミカエルに詰め寄った。
「すごいなおっさん!」
「体もすごいけど思考回路もぶっ飛んでてすごい!」
双子がイザベラには理解できないところで感動している。
ふとフェルナードを見ると、じっとミカエルを見つめて何かを考え込んでいるようだった。
「……フェルナード王子」
その彼の手をそっと引いて、窓際まで連れて行く。
それを見てみぬ振りをしてくれた双子とミカエルに感謝しつつ、厚いカーテンの裏側にそっとフェルナードを導いた。
されるがままついてきたフェルナードは、なにか、とでも問うように首を傾げている。
そんな仕種が可愛くて、そしてそんな仕種を見せてくれたことが嬉しくて、イザベラの頬が勝手に緩まる。
まるで天使であるが、にやついている場合ではない。
「ミカエルには私からうまく言っておきます。エルゴルの者をすぐに信用してすべてを話す必要はございません」
緩んだ頬を引き締めてそういったイザベラに、フェルナードが呆気にとられた顔をする。
その顔を見て、自分の考え違いだったかとイザベラは慌てた。
「あ、ごめんなさい。もしかしてミカエルに声のことを話すかどうか迷ってらっしゃるのかと思って」
言われて初めてそのことに気付いたかのように、フェルナードは小さく首を振って、黒板を取り出した。
カツカツと書かれた言葉に、イザベラは目を丸くする。
『声のことは折を見て話すつもりだが、彼を信用していないわけじゃない。私はただ、彼はいい講師になりそうだな、と思っていただけだよ』
「講師?」
『騎士団の鍛錬のね』
なるほどここでサムエルの戦馬鹿の言葉に納得することになろうとは思わなかったが、納得してしまった。
フェルナードはアステート公国の王子である前に、騎士団の団長なのかもしれない。
『それと、イザベラ、口調が戻っている』
ついでのようにそんなことを書かれ、イザベラは唇をきゅっと閉じた。
嬉しくて今にも顔が崩れ落ちてしまいそうになったからだ。
「ミカエルはエルゴルでも城の守備隊の隊長をしていたの。言えばきっと快く受け入れてくれるわ」
にやけそうになる顔を隠しきれずにそう言うと、フェルナードも極上の微笑で返してくれた。
それだけでなんだか幸せを感じてしまう。重症である。
『君が、捜索隊は必要ないといった意味がよくわかった』
そしてフェルナードが、可笑しそうに笑う。
確かにあの見た目と気迫だけで、ミカエルが只者ではないとわかることだろう。
「野宿も得意だし、狩りも上手なの。ミカエルの野うさぎのスープは絶品なのよ」
言ってから、一応一国の姫が野うさぎはまずかったかと思ったが、フェルナードの目が輝いたのでよしとする。
『野うさぎは美味しい。機会があれば彼に作っていただこう』
フェルナードの瞳がきらきらとしている。
ここまでミカエルと野うさぎのスープに反応されてしまうと、ちょっと複雑である。
フェルナードはイザベラを忘れず部屋の中央へとエスコートすると、早速ミカエルに喉の傷のことを伝え、そのあとは黒板と声とで会話を始めてしまった。
筋肉馬鹿と戦馬鹿は意外と馬が合ったようで、異様な盛り上がりを見せている。
イザベラの心中はますます複雑である。
一方は文字で会話しているというのに、お互いに楽しそうな様子が伝わってくる。
ともすれば、イザベラといるときよりずっと楽しそうである。
更にはそこに双子達も加わり、イザベラはいよいよ美しい部屋の中で孤立してしまった。
暖炉の火が暖かい。
などと現実逃避してみても、イザベラが会話に参加できる隙がない。
なにが楽しいのか、あの山は水が綺麗だから獣の肉もうまいだとか、あの戦ではこの戦法を使ったほうが丸二日は早く投降させることができた、だとか、いい筋肉を作るにはあの食材とこの調理法の組み合わせがいいだとか。
イザベラのいやな予感は当たり、男達の血わき肉踊る筋肉と戦談義は、なんと日が暮れるまで続いた。
その日からイザベラには敵ができた。
筋肉むきむきでなんでもできる、大層巨体な恋敵である。
あの日以来、フェルナードはミカエルに夢中になった。
いや、変な意味でなく。
ミカエルが得意とする柔術や彼の持つ武人としてのセンスや知識に惚れ込んでいるようで、暇を見てはミカエルを誘い出し、騎士団棟へと連れて行く。手合わせをしたり騎士達の指導をさせたりと、随分と仲良くやっているらしい。
騎士団でも早速受け入れられ、既に師と仰ぐ者までいるというのだから、さすがミカエルであるが、今まで一番信頼していたミカエルがまさか己の恋敵になろうと誰が予想しただろう。
ミカエルはイザベラの従者として振舞っているが、なにを気負っているのか、姫の未来のご夫君を見極めさせていただきます、などと言って片っ端からフェルナードの誘いに乗っている。
どう見ても自分が楽しいからついていっているうようにしか見えない。
この事態はさすがにベルにも予想できなかったのか、最近彼女がイザベラに優しくなった。
とはいえ、その優しさがつらい。
「……今日もミカエルはフェルナード王子のところなの」
遠乗りした日から帰ってきて数日、この質問を欠かさなかったことはないように思う。
通常なら一番に挨拶にくるはずのミカエルは、早朝から騎士団の訓練に参加しているらしく、顔も見ないことが多かった。
これではなんのための従者なのかわかったものじゃない。
「姫、一度お諌めになればどうですか。王子にしてもミカエル殿にしても、少々遠慮がなさすぎでは」
己の楽しみ最優先の男達に、ベルが苦言を呈す。
イザベラは一瞬悩んだが、すぐに頭を横に振った。
「……寂しいけど、嬉しくもあるのよ。フェルナード王子がわたくしの国の者と親しくしてくれていることが」
どちらに会えなくて寂しいかは明言は避けた。ベルにはお見通しだろうが。
「姫はもう少し欲張りになるべきです」
ベルが大真面目にそんなことを言う。以前も言われたような言葉である。
「わたくしにはベルがいてくれるもの。わたくしはわたくしで、やるべきことをやらなくちゃ」
フェルナード王子に会えなくて寂しいからと、そんな甘えたことなど言っていられないのだ。
相変わらず下心がたっぷり詰め込まれたプレゼントは届いているし、勉強だって進めなくてはならない。
そしてなにより大切な、歌の練習も。
「あの丘まで行くのも結構ですが、なるべく護衛は近くに置いてください」
丘に出ての練習にベルから文句を言われることは少なくなったが、護衛に離れて待ってもらっていることには不満があるようである。
そのたび一応頷くのだが、改善の余地はない。
近づければあまりうまくもない歌声が聴かれてしまう。
そういうわけで今日も今日とて歌を歌いに来たのだが、気もそぞろでなかなか集中できない。
丘から見える無骨な騎士棟が視界に入る度、あそこでフェルナードとミカエルは親交を深めているのだと思うと嫉妬がとまらないのである。
(私だって満足に一緒にいられないのに)
ミカエルの馬鹿、と小さく愚痴ってはみても、男達に届くわけもない。
今頃楽しげに騎士棟の中で剣を交えているのだろう。
フェルナードの剣を振るう姿にとても興味があるが、今は彼がいる騎士棟がとんでもなく遠く思える。
(あの時はあんなに近かったのに――)
湖の城で、あんな幸せで落ち着かない時間を過ごしたことなど夢のようである。
(フェルナード王子の手、大きかった……)
あの手に触れられて、あと少しで傷跡まで届きそうだったのに。
あのときを夢に見ては、なんだか嬉しいような、今傍にいれないことが寂しいような気持ちになって複雑なのである。
恋とは面倒だ。
(昔は恋の歌なんて、ただ想像して歌っていただけだったけれど)
きっと今なら、どんな恋歌だって歌えるような気がする。
思うと、歌わずにはいられないのがイザベラだった。
腐っても歌姫だ、と自分で思いながら、唇が勝手に開く。
本格的に練習を再開して、だいぶ声が元のように出るようになった。
腹に力がこもる。
胸が膨らむ。
喉が開く。
近いようで遠い騎士棟にいるだろうフェルナードのことを思うと、ぐっと声に心がこもるような気がした。
聴いてもらうための歌ではなく、己のために歌う恋の歌だ。
(この心を歌にこめて、)
届けられたらいいのに、と思う。
この歌で、あの人にこの思いを届けることができたなら。
(……会いたい)
恋の歌を歌ってしまうと、その気持ちが己の中で膨張して、いてもたってもいられなくなってしまった。
人前で歌うことができなくなってしまった歌姫が、そうなってから初めて心から聴いて欲しいと願ったのを、当の本人のイザベラは気付かない。
フェルナードに会いたいという気持ちで埋め尽くされていた彼女の頭には、ほかの事を考える余裕などなかった。
(騎士棟に行こう)
ちょっと覗いて帰るだけでいい。
護衛の人にお願いして、ほんの少しだけ、顔を見せてもらうだけでいい。
もし断られても負けるものか、とイザベラははた迷惑な決意をして、騎士棟を目指して丘を降りた。