最愛の調べ~寡黙な王太子と身代わり花嫁~




――結局、こっそり顔を見て帰るだけのつもりだったイザベラの計画は水の泡となった。

元々勢いに任せた思いつきだったのでこうなることも当然だったろう。
フェルナードの計らいで、今回のことは非公式の騎士棟訪問と称し、イザベラは普段のフェルナードの仕事場を見て回ることを許された。

鍛錬している騎士達の様子を見たり、剣を持ち上げてみようとしてできなかったり、昼食を共にしたりと、なんだかエルゴルに戻ったときのような気安い一日になった。

大半の騎士達は友好的で、イザベラが言葉遣いや身分の差を気にしないとわかるや、我先にと話しかけてくる。それにひとつひとつ答えながらイザベラも嬉しそうな顔をするので、更に調子に乗った騎士達が話しかける、というのが繰り返された。
自国には王子しかいないので、本物の姫と接するのが新鮮なのだという。

フェルナードは黙ってイザベラ達の様子を眺めていたが、時折騎士達がイザベラに近づきすぎると牽制するなどして、イザベラの婚約者の立場を活用していた。
昼食後はフェルナードが事務処理をする執務室に案内され、そこで黒板を使いながら談笑した。

先日の湖でのことは話題に出せなかった。気恥ずかしくて。

そこにミカエルがやってきて、彼が頂いたお茶を楽しんだ。
ミカエルは鍛錬後、こうしてフェルナードの執務室に寄り、こうして茶を淹れて休憩を促してくれるのだという。
なんて羨ましいのだ、とは思っても言わなかった。

ミカエルが思っていた以上に騎士棟に馴染んでいることに驚きつつも、大変充実した一日であったといえる。
なによりイザベラの胸の中にあった、二年前の慰問での出来事がほんの少し重みを軽くした。
それですぐさま歌えるのかと問われれば断言はできないが、歌に救われたと言ってくれた彼らに、また聴いてもらいたいとも思う。

そんな〝いい日〟であったが、残念ながら〝いい〟ままでは終わらなかった。






「……お立場を勘違いなさっては困りますね」

部屋を尋ねてきたサムエルに冷ややかに見つめられ、イザベラは青ざめた。
夕日の美しい窓際で、イザベラはサムエルを前に蛇に睨まれた蛙のように硬直していた。
イザベラが許可もなく騎士棟へ赴いたことを知ったサムエルが、苦言を呈しにきたのである。

「ご自身のお立場をご理解なさっていると思っていましたが、とんだ見当違いでした。貴女はフェルナード王子のお立場を磐石なものにするための手段のひとつであるとお心におとめください。それを今後お忘れなきよう」

わかっている。忘れていない。
けれど。

(浮かれていた)

あの美しい人に優しくされて、恋を自覚して、調子に乗ってしまった。

「も、申し訳ございません……」

思わず項垂れて、イザベラは心の底から謝罪した。
サムエルの言うとおりである。
恋に現を抜かし有頂天になって、王子の職場にまで足を踏み入れるなど言語道断だ。しかも無許可。暖かく迎えてくれた騎士達のほうが特殊なのだ。

「王子が魅力的であるのは承知しておりますが、貴女にまでステラ嬢のようになってもらっては困るんですよ。きちんとお立場をご理解した上でお傍にいてもらわなくては、裏切り者のエルゴルの姫をわが国に置く意味がありません」

辛辣である。
暫くはサムエルのこの言葉が夢に出てくるだろう。目覚めていても幻聴としてイザベラを悩ませるかもしれない。
憔悴しきった様子で頷いたイザベラに、サムエルも溜め息を吐いて立ち上がった。
帰っていただけるらしい。できれば今すぐ出て行って欲しい。我慢している涙が決壊しそうである。

「もうひとつ」

まさかまだあるとは。
既にイザベラに背を向けていたサムエルがゆっくりと振り返った。
思わず居住まいを正す。
そんなイザベラから少し視線をずらして、サムエルは口を開いた。

「王子には昔から想いを寄せられている方がいらっしゃいます。その方を早く迎えるために、お立場の安定を急がれているのです。貴女との式が無期限に延期になったのはそのためです。貴女はあくまでもその方を迎えるまでの盾であることをお忘れなきよう」

ぱたり、と扉が静かに閉まった音で、サムエルが出て行ったことを知った。



――そうか、とイザベラは思った。

フェルナード王子に愛している女性がいることはなんら不思議なことではない。
あれだけ美しく、そして強い人だ。
騎士棟での彼を見ていれば、騎士達に全幅の信頼を寄せられているのがわかる。人柄も申し分ない。
裏切りの国のイザベラにも優しくしてくれる。
そんな人が、誰かと想いを通わせることが今までなかったわけがない。

(馬鹿ね、イザベラ)

この国に来て何度思ったか知れない自嘲を、イザベラは随分と久々にした気がする。

(落ち込むことなんてないわ。最初から望めない恋だった)

浅はかにも、希望を抱いていたらしい。
フェルナードの優しさに触れるたび、じわじわと恋という虫が大きくなってイザベラから理性を奪っていった。

(一番はじめに釘を刺されていたのに、どうして忘れていたの)

それを忘れていなければ、傷も深くなかっただろうに。

(でも、だって)

あの人が。

〝次痛んだときは、貴女にお願いすることにする〟

そんなことを言ってくれるから。

ぽたりと落ちた涙は、もう引き返せないイザベラの心を表していた。

すきなのだ。

あの人に想う人がいるとわかっても、この想いは殺せそうにない。

座っているイザベラのスカートに、ぽたぽたと涙の跡ができる。
それがどんどん歪んでいって、とうとう涙で前が見えなくなった。

(……なら、恋をしたままでいよう。そのままの私で、私はあの人の歌姫として盾となろう)

声をなくしても、強くあるフェルナードのその強さを、盾として守れるなら。

(あの人が好きだわ)

この恋が実らなくても、あの雨の中、抱きしめてくれたことを忘れることはないだろう。

(あれはきっと、王子が見せてくれた彼の弱くて柔らかいところ)

イザベラにくれたその部分だけを大切にして、イザベラは恋を抱えたまま望みを抱かないと決めた。




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