最愛の調べ~寡黙な王太子と身代わり花嫁~
恋に溺れる
翌日から、イザベラは勉強の時間以外はフェルナードを観察することにした。
ベルとサムエルには怪訝な顔をされたが、差し支えなければなるべく多くの時間をフェルナードと過ごせるよう取り計らってもらい、自らメイドのような真似をした。
仕事の合間にフェルナードや他の人間に茶を注いだり、書物の整理をしたり、部屋を片付けたり。
たまに彼が黒板なしで語る唇の動きをじっと見つめて、それを受けた相手の返答を確認する。
何度かメモを取って、双子とミカエルに協力してもらいながら観察を続けた。
目的があってこそだが、仕事中の彼を見ることができるのはとても素敵なことだった。
騎士団の運営以外でも、境界線の警備や友好国との交流など、彼が担っている仕事は様々で、その量の多さにも驚いた。そしてそれをさくさくと捌いていくフェルナードはとても頼もしく見えて、そんな彼を、一時でも側で見ていられるということはイザベラにとってただひたすらの幸福だった。
西国とのいざこざは、先日訪れた騎士棟での執務室で処理するというが、ここも執務の場である。何度かフェルナードの部下が西国の話をしているのを聞く機会にも恵まれた。
そのどれもが国境の砦が少し騒がしくなっているらしいといった、漠然としたものではあったが。
そういったこともあり、最近のフェルナードは特に急がしそうである。ミカエルも例の山賊討伐の件などで忙しそうにしている。
さすがに邪魔になるかとサムエルに申し出ると、意外なことにそのままメイドの真似事をしていていいとお許しが出た。
「あなたがいると何故か部下への当たりも優しいですからね。彼らのためにもご機嫌でもとっておいてください。立場を忘れずに」
とのことである。
フェルナードはイザベラの淹れる茶が気に入ったらしい。ただの茶であるのだが。
そんなわけで、フェルナードの執務室でメイドの真似事をしているイザベラ姫は、城でも有名になりつつあった。
『……なにかありましたか』
イザベラの思惑を知らないフェルナードはそんなことを言う。
急に距離を詰めて行動するようになったイザベラに不信感を抱いたのだろう。
ある夜、晩餐のあとの食休めで躊躇ながら書かれた文字に、イザベラは思わず笑ってしまった。
飾らずに話して欲しいと言うわりに、彼のほうはいつも丁寧である。
『私の側で少しでも助けになりたいなど……、嬉しいが、なにかあったのではと』
そしてとんでもなく優しいのが彼である。
「ちがうの。今ちょっと勉強中で、そのためにあなたの傍にいる必要があるだけ」
目的を話してもいいが、まだ自信がない。できれば自信がついてから、話そうと思っている。
初めて見たとき圧倒された、黒板に囲まれたフェルナードの部屋にももう慣れた。 夕食の後、ここで杯を交わすのが最近の日課である。
『……それだけですか』
不満らしい。
フェルナードを見ると、どこかふて腐れたような顔をしている。
「あ、あの、でも、貴方のお役に立ちたいのは本当。やれることは少ないけれど……」
役に立っているかと言われれば自分では首を捻ってしまう程度のことしかできていない。
落ち込みかけたが、フェルナードが差し出した黒板を見てイザベラは息を停めた。
『……あなたは居てくださるだけでいい』
心臓が痛い。
嬉しいが、心臓がしぼむほど悲しい。
こんな言葉をかけてもらって、それは本音なのかと疑ってしまうことが。
――他に好きな人がいるのに?
それでも嬉しくて、にやけてしまうのだから重症である。
(考えたらだめだわ、イザベラ。私はただ、許される間だけでもこの人の側にいられるだけでいい)
そんな聖女のようなことを、自分を騙すために言い聞かす。
『そういえば、ステラ嬢から茶会への招待を受けたと聞きました。断りづらいようなら、私からロセ・ファンに言って聞かせますが……』
耳が早い。イザベラとて今日の昼頃、ベルから手紙が届いていると聞いたばかりだ。
「あ、いえ、仲直りのしるしにとのことだったから、お伺いしようかと」
今度の茶会はステラ嬢の別荘で行われるらしい。ちなみに一国の姫であるイザベラは別宅どころか衣裳部屋すら持っていない。
本音を言えばもう関わりたくないが、あのロセファンの娘である。
ある程度のご機嫌は取っていたほうがいいかもしれないと判断した。しかもこの招待状を直接ロセファンが持ってきたというのだから、イザベラにはノーの答えなど用意されていない。なにやら日時が変更になったとかで、娘から言伝を預かってきたとかいう。
父とはいえ、一国の宰相を顎で使うのだからステラ嬢もある意味大物である。
『……ミカエルを連れて行ってください』
不機嫌な顔を浮かべたフェルナードを不思議に思いつつ、イザベラは頭を横に振った。
「でも今、例の山賊の件でお話を詰めているでしょう?ミカエルも張り切っているので、そちらに置いてあげて。ベルが一緒に来てくれるから、大丈夫」
潜入していたミカエルから山賊の根城やら行動パターンやらを聞き出していたのは今日のことだ。
国境警備の交代遠征のついでに、問題の山賊も叩こうとの計画が持ち上がっている。
茶を注ぎながら聞いただけなので詳しいことはわからないが、そういうことらしいのでイザベラなんぞに人材を割かなくていい。
イザベラが断ると、フェルナードはますます機嫌を悪くしたようだった。
美しい顔はほんの少し表情を歪めるだけで、大層恐ろしい顔になるものである。
「……お、怒ってる?」
思わず顔を覗き込むと、ふいっと顔を逸らされた。
えっ。
そんなことをされたのは秘密を打ち明けられて以来初めてだ。
声もなくイザベラはショックを受けたが、フェルナードを知る前とは違う。
めげずに身を乗り出し、逸らされた顔を追いかける。それに合わせて、フェルナードも益々顔をそむけた。
「あ、あの、ごめんなさい。心配してくれるのはわかってるの。あの、でも」
ついつい弁解してしまうが、言いながら理不尽だとも思う。
(だって、ミカエルと一緒になって私をほったらかしにしてたのは王子のほうなのに)
心配してくれるのは嬉しいだとか、どうして怒ってるの、とか、そんなことを口が勝手にぺらぺらと話す裏側で、心の中のもやもやは晴れない。
イザベラが雑務の手伝いを申し出なければ、フェルナードと過ごす時間など皆無に等しかったのだ。
一緒にいたいと思っているのは片思いしているイザベラだけで、フェルナードはそうではないと思うと、胸がぎゅうと引き絞られて、理不尽な怒りが湧いてくるのである。
「……だって、フェルナード王子はミカエルといたほうが楽しそうだから」
結果、不毛な嫉妬のせいでとんでもないことを口にしてしまった。
しかも言い方がひどい。まるで年頃のわがままな娘そのものではないか。
我に返っても後の祭りである。一度出した言葉は取り消せない。こんなとき、筆談なら、書く前に一考することがができるのに、とせん無いことを考える。
驚いた顔でこちらを見つめるフェルナードとばちりと音を立てる勢いで目が合った。
「あ、あ、あの」
言い訳を紡ごうと口が勝手に開く。
心の狭い面倒な女だと思われるかもしれない。
(よりによって自分のところの執事にやきもちを焼くなんて)
真っ赤になったり真っ青になったりと忙しいイザベラを見つめながら、フェルナードは唇を震わせた。
「え?」
思わずつぶやいてしまったかのようなそれに音はない。
まだうまく読めないイザベラが問い返した声にはっとなって、フェルナードは急いで黒板に文字を書く。
『嫉妬ですか?』
彼は彼でとんでもないことを聞いてくる。
イザベラはとうとう採れたてのムクの実のように真っ赤になった。
フェルナードの問いへの答えも見つからず、視線を右往左往させながら、俯いたり天井を仰いだりとせわしない。
とうとうやることも逃げる場所も失って、拳で顔を覆った。
パチパチと暖炉から薪が爆ぜる音がする。
その音しかしない。
沈黙が永遠のもののように感じた。
ついでにフェルナードからの無言の圧力も感じる。
イザベラは往生際悪く顔を隠したまま、小さく頷いた。
「……でも、あの、ミカエルがきてから、王子はミカエルとばかり一緒で、私より、ミカエルといる時間のほうが長いんだって、そう思ったら悔しくて、ミカエルが羨ましくて」
なにを言っているんだろう。
こんなことを暴露させるなんてひどい。
(私の気持ちには応えられないくせに、私には貴方への気持ちを吐き出させるなんて)
恥ずかしさのあまり、フェルナードすら責めてしまう。
フェルナードは応えない。
パチパチと火が爆ぜる音がして、それに追い立てられるように、イザベラは口を開いた。
「……ごめんなさい。こんなこと貴方に言って、」
いいことじゃないのに、と続けようとした言葉はどこかに消えた。
ひんやりとしたフェルナードの手が、イザベラの手首を掴んでいる。
触れるだけだったそれは徐々に力がこもり、まるでイザベラを促すように、その顔を隠す手を外させた。
ゆっくりと離れていく己の手の向こう側に、フェルナードが見える。
暖炉の火と蝋燭に照らされた、まるで彫刻のような美しさの人。
真剣な眼差しで見つめられると、生きているのか生きていないのかわからなくなるような、美しさ。
ゆっくりと外される指越しに、その男の顔が近づいてくる。
お互いの顔しか見えなくる頃、掴んだままのイザベラの手をフェルナードはゆっくりと誘導した。
ボタンが外された詰襟の、その白くも逞しい首元へ。
名前を呼ぼうとして声が出なかった。
ぴんと張った糸が簡単に切れてしまうような気がして、なにも言葉にならない。
フェルナードの剣だこのある大きな手に導かれて、イザベラの熱くなった指がそっと彼の首筋に触れた。
心臓が小刻みに震えている。
その震えが伝わって、指先すら震えてしまいそうだった。
暖炉の炎に照らされた影が、ゆらゆらと一面の黒板に映し出されている。
フェルナードの手がゆっくりと、まるでイザベラを怖がらせないように、その詰襟の中へ導いた。
イザベラの手によって、襟が広がる。
痛々しい傷口が見えて、イザベラは心臓の震えが大きくなったのを感じた。
イザベラの手が、ゆっくりとその場所へと伸ばされる。
フェルナードの視線を感じる。
イザベラの表情の変化をひとつも逃さないようにと、じっと見ている。
だからイザベラは、ただひたすらその傷口を見つめ返した。
触れたいのだと。
貴方の柔らかな場所に、触れてみたいのだと。
そして許されるなら温めて、痛みを忘れさせてあげたいと。