最愛の調べ~寡黙な王太子と身代わり花嫁~




(厚かましいことを願っているとわかっている。けれど、どうか、)

彼が許してくれるなら。

触れた傷跡は、思っていたよりもずっと柔らかくて、ひんやりとしていた。
冷たい刃が裂いたであろうそこは、ぱっくりと口を開いてでこぼこした皮膚で覆われている。
それをゆっくりとなぞって、彼の声を奪った刃の軌跡を辿る。

思っていたよりもずっと大きな傷だった。
いつもは詰襟の下に隠れているそれは、首の横までその牙を伸ばしている。
痛かっただろう、どれだけ恐ろしい思いをしたのだろう。
そう思うのに、イザベラはもう、この傷を治したいとは思わなかった。
声を聞きたいとも、もう思わない。
こんな傷を負って、よく生きていてくれたとは思っても、この傷をなかったことにはもうできなかった。

(王子が、私に許してくれた)

この柔らかくて弱くて、急所でもあるこの傷跡に触れることを許してくれたことが、イザベラにとってどれだけのことか。

(きっと貴方にはわからない)

どこか歪な想いを抱いて、イザベラはその傷跡に触れた。

忘れないように。
このときだけは、この傷跡は己の手が届く場所にあるのだと。

いつの間にか、フェルナードの手は外れていた。
イザベラはフェルナードに見つめられていることも忘れて、その太く逞しい首にそっと指を回した。首全体を包み込むように、己の手のひらで傷跡を覆い隠す。
イザベラが今抱いているこの胸の熱で、この傷跡を温めてあげることができたら。

(そうして伝わればいいのだわ。叶わなくていい。彼に、ここまで許してもらえたのなら)

それだけで悔いはないように思えた。

歌えなくなったイザベラと、声を失ったフェルナードの、少し歪で、不健全なほんの一時だ。

(この一時を望むのだから、私はとんだ欲しがりだわ、ベル)

彼の傷跡を、彼のためではなく、己のために温めている。
伝えるための歌を歌えない代わりに、この傷跡を通じて、伝えたいと思う。



どれだけの間そうしていただろう。

既にフェルナードの首とイザベラの手は同じ体温になっていて、境目なんてわからないくらい溶け合っている。
敏感な手のひらに感じる傷跡の凹凸が愛しかった。
こんなことを口にしたら嫌われるかもしれないが、イザベラの胸を占めるのは、満足感だった。

「……あ」

それまで好きにさせていたフェルナードが、イザベラの手をそっと外す。
イザベラの小さな手の向こう側から、温められて少し赤みが増した傷跡が姿を現した。

(終わっちゃった)

彼の傷跡を温めるだけの、自己満足で歪んだ、イザベラにとって夢のような時間だった。

外され手を、そっと膝の上に下ろされる。

それを目で追って、今更ながらにどこか冷静になると顔が上げられなくなってしまった。
ゆらゆらと、先程と変わりなく二人の影は距離を保って揺れている。

それを視界の端で認めながら、イザベラは不意にフェルナードの指に顎を持ち上げられた。
新緑の瞳が思った以上に近くにある。

息をのむ暇もなかった。

熱に浮かされているような森の瞳が瞼に隠れた次の瞬間には、ぼやけてわからなくなる。

唇に、異様に柔らかなものが触れていた。

ふわふわと頼りない、冷たいようで温かなそれが、イザベラの唇に重なっている。
目の前のフェルナードがぼやけているのは、近すぎるからだ。
そう悟ったのと同時に、口付けされていることにやっと気付いた。
少しだけ角度を変えて、まるでお互いの唇の柔らかさを確かめるように触れていく。
イザベラがつい先程までしていた、傷跡への触れ方とどこか似ていた。相手にいやな思いをさせないように、探り探り、臆病ながらも触れることをやめられない。
抵抗することも忘れて、否、抵抗する理由もなく、イザベラは静かに瞼を閉じた。
途端に触れ方が荒くなって、一瞬離れたフェルナードの唇から熱い息が吹きかけられた。
その熱さにやられたように、今の今まで夢うつつだった頭が一気に熱くなる。

「あ、」

フェルナード王子、と呼ぼうとして、失敗した。

それを遮るように塞ぎにきたフェルナードの歯と、かちっとぶつかる。
歯を伝ってじいんと上唇が震えたが、それでもフェルナードはやめてくれなかった。
空いた唇の隙間から、フェルナードの息が咥内に入り込んできて、ついでぬるりとした肉厚の舌が入り込んできた。
驚いて引っ込んだイザベラの臆病な舌を、その舌が探り当ててなぶる。
恥ずかしさで頭がおかしくなりそうだった。
それなのに、背中に回るフェルナードの腕がうれしくて。
触れ合う唇が嬉しくて、イザベラも求めるように手を伸ばす。
この口付けの意味を考えたが、考えたって無駄だとわかっていた。

わからなくてよかった。
せめて今は、何も考えずに、彼の熱に溺れていたかった。

今ならきっと、最上の恋の歌が歌える。



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