最愛の調べ~寡黙な王太子と身代わり花嫁~
指のない兵士
食事を終えて暫くすると、天幕を開けて一人の男女が入ってきた。
腰に長剣を差した兵士らしき男は、手にたらいを持っている。もう一人の女は動きやすい服に前掛けをし、その手に布を持っていた。
兵士の男は三十代、女のほうは大きな子供がいてもおかしくない年齢に見えた。
「こんにちは」
入ってきた男女に、柱に括り付けられたまま挨拶をすると、硬い表情だった二人は目を丸くしてイザベラを見てきた。
「彼ならいないわ」
男に用だろうかとそう伝えたのだが、女はそうではないと首を振る。
「その王子に頼まれたんですよ。あなたの傷の手当てと、体を拭くのを手伝うようにと」
兵士が答える。どうやらたらいには温かな湯が入っているらしい。
「私に?水は貴重なものではないの?汚れなんて気にならないから、構わなくて大丈夫よ」
捕虜に対する待遇ではない。ここが前線なら、それなりの兵士達が駐在しているはずである。それなのに設備の整った砦ではなく天幕で生活していることから、あくまで簡易的に設けられた拠点であって、井戸も掘っていないだろう。
「おかしなことを言う姫さんだねえ。うちのとこに来た我儘なお嬢ちゃんとは大違いだ」
「ステラ嬢のこと?」
どうやら彼女は給仕の女性らしい。イザベラが身を乗り出して訊ねると、そんな名前だったかね、と返ってきた。
「彼女は無事?怪我は?」
「あんたと比べたら綺麗なもんだよ。眼が覚めた途端、身を清めたいから今すぐ湯浴みの用意をなさい、なんて命令してくるからみんなで驚いたもんさ」
言いながらも、女はてきぱきとイザベラの体を調べ、肌についた汚れを手際よく拭っていく。
ステラ嬢はどこにいたって安定のステラ嬢である。
「わたしはアターシャ。この若いのはルサ。お姫さんの名前はなんだね」
女は人好きのする笑顔でイザベラを見た。その笑顔が炭鉱夫の妻達と重なり、イザベラも自然と笑みが浮かぶ。
「イザベラよ。よろしくアターシャ、ルサ」
捕虜の立場でおかしなものだが、イザベラは至ってにこやかにそう告げた。
それを受けて、ルサが噴出す。
「本当に変わったお姫様ですね。捕まってる自覚あります?」
失礼な物言いだが嫌味がない。率直にものを言う人間なのだろう。
「あるけれど、捕虜の待遇としては破格なのも理解しているわ。わざわざ私のためにありがとう」
湯を沸かすためには薪がいる。その薪だって、彼らが森に入り集めてきたものだろう。水だって同様だ。川が近くにあるにしろないにしろ、水を運ぶのは重労働である。
そのどちらも捕虜のイザベラに割くというのは、イザベラの身分があったとしても、この前線ではかなりの好待遇であるとわかる。
アステートの授業では西の国は強欲な国だと教えられたが、あくまで国を束ねる者がそうであって、国民にまでそれを当てはめるのは横暴だろう。
事実、王子と呼ばれたあの男は真に民を思っていた。
「なんだいなんだい。あのお嬢ちゃんにあんたの爪の垢を煎じて飲ませてやりたいくらいだね」
アターシャが呆れた声を出す。ステラ嬢がいかに我儘を口にしているかよくわかる反応である。
「ステラ嬢はまだ小さな女の子なの。どうか許してあげて」
一応、身内というか保護者のような立場としてお願いしておく。
「おやおや、イザベラ姫。あの歳の娘は小さい女の子とは言わないね。周りがそんなふうに甘やかすから、あんなのが出来上がるのさ」
ぐうの音も出ない。
「しかも聞けば、あんたを山賊に売っぱらったって言うじゃないか。被害者のあんたがそんなんじゃ、あの嬢ちゃんは一生あのままだよ。一度くらい痛い目を見せないとね」
まさか痛い目を見せているのでは、とイザベラが不安げな顔をすると、アターシャはそれを笑い飛ばした。
「今までしてこなかっただろうことをさせてるだけさ。掃除洗濯、料理に身支度」
民にとって普通のことでも、貴族令嬢であるステラ嬢には大変な労働だろう。大丈夫だろうか。
「文句を言いながらも頑張ってるよ。やり方が全然なってなくて、あたしらの仕事が増えるだけだけどね」
そう笑い飛ばしてくれるアターシャが眩しい。
アターシャによって簡単に体が清められると、次はルサが小さな傷の手当をしてくれた。
「貴女に触れたなんて知れたら、俺殺されないかな」
手際よく消毒していきながらそんなことをぼそりという。身分の差を気にするタイプらしい。
ルサの右手には、中指と薬指、小指がなかった。
「……あなた達の王子は、第三王子のエンデル王子?」
西の国について学ぶ際、現王の息子達の名も学んだ。
そこでエンデル王子は、母親の身分が低いために王位継承権の枠から外れた位置にいると聞いたはずだ。しかし、こうして実際に前線に出て指揮をとっているとは聞かなかった。
「そうですよ。本来ならお城にいる人なんですけどね、城の連中とそりが合わなくてこんなところに出てきちゃったんです。アステートの軍神に比べたら凡庸かもしれないけど、あの人がいてくれたから俺らはこんなところで生き延びることができてる」
口数の少ない男かと思えば、エンデルに関してはよく喋る。その言葉の端々に感謝と尊敬のようなものが混じっていて、イザベラは何故か胸が苦しくなった。
こんなふうに誰かを尊敬できるような人々が、フェルナード率いるアステートと戦っている。
人間同士なのだから当たり前のことであるのに、そんな彼らが望まない戦いに身を投じているのがつらかった。
兵は皆傷を負っている。実際の戦いに出て、無傷の者などまずいない。敵の刃は防げても、味方からの矢に撃たれる者だっている。
大きな傷を負ったのは、何かを失ったのは、フェルナードやアステートの兵たちだけではないのだ。
「……王子が貴女を連れてきちゃったのも、考えがあってのことです。ちゃんと無事に帰す気はあるみたいなんで、もう暫く辛抱してください」
そんなことを言われてしまっては、益々つらい。
「……貴方のほうがよほど変わってるわ。捕虜にそんな言葉を掛けてくれるなんて」
手が自由なら、その傷だらけの手を握ってこの気持ちを伝えられたのに。
そんなことを言うイザベラを、ルサは目を丸くして見返した。
「本当に変わったお姫様ですね」
*
「お前の客だった」
ルサとアターシャの入れ替わりに、男にそう言われて伴われてきたのはベルだった。
「ベル!」
「イザベラ姫!」
あの茶会の日そのままの姿で、随分と草臥れてしまっている。お仕着せは土や草の汁で汚れ、いつも隙なく編まれていたた髪は乱雑にひとまとめにされていた。
イザベラは思わず駆け寄ろうとして柱にくくり付けられていることを思い出した。ベルの両手も後ろ手に縛られている。
「姫になんてことを!」
ベルがすくみ上がるような視線で睨みつけるが、男は涼しい顔をしてそれを受け流している。
いつも涼しげだったベルからは想像もできないほどの激しさだ。
「大したものだな。賊に攫われたお前を追って一人でここまで辿り着いたらしい」
「え!?」
男の言葉にイザベラが声を上げる。
そんなイザベラを無視して、男はベルを冷たく一瞥した。
「フェルナードには報告済みか。俺達の報せより早く知っていたことになるな」
男はそう独白すると、縛られたままのベルとイザベラを残し、足早に出て行ってしまった。
「イザベラ姫!」
男が出て行ってすぐ、ベルはイザベラに駆け寄ってきた。近くに来れば、その顔に擦り傷や切り傷が窺える。
「ベル、なんて危ない真似を」
ステラ嬢の策略とはいえ、ベルにこんな危険を冒させてしまうとは。
思わず涙ぐむイザベラだが、当の本人はまったく気にしていないようである。
「姫の責任ではありません。そもそも同じ屋敷内にいながら、賊に蛮行を許した私に落ち度がございます」
敵地であろうとベルはベルのままである。
イザベラを責めるどころか自分を責めている姿は、一介のメイドには見えない。
「ベル、まるで軍人のようだわ」
「軍人です」
「えっ」
あまりの頼もしさに思わずそう漏らすと、あっさりと頷かれてしまった。
「元はフェルナード王子直属の部下でした。幼かった王子に剣を教えたのも私です。イザベラ姫の安全を守るため、王子からの勅命でメイドに扮しておりました」
なんてことだ。
呆気にとられているイザベラを他所に、ベルは後ろ手に縛られたままの腕を足の下を通して体の前に持ってきている。
どうやったのだとたて続けに呆然としているイザベラを他所に、口の中から小さな剃刀を出して縄を切り始めた。
「ベル、すごいわ。まるでミカエルみたい」
「あの方が優れた軍人であるのは存じておりますが、いっしょくたにされるのは些か心外です」
言いながらも、頑丈そうに見えた縄はもう切れそうになっている。しかしベルは切れる寸前で止めると、今度はイザベラの後ろに回って柱にくくりつけられた縄にも切り込みを入れた。
「メイドだと思って油断したのか、口の中まで見られず済みました。少し力を入れれば簡単に外せるようにしておきます。暫くすれば王子も到着すると思われますので、その隙に逃げ出しましょう。それまではご辛抱を」
言うと、ベルはまた足の下を潜らせて腕を後ろに回し、元通りにした。
「フェルナード王子がくるの?」
ベルの流れるような技に感心しつつ、まさか本人が来るとは思ってもいなかったイザベラは素っ頓狂な声を上げた。ステラ嬢もいることだし、使者を寄越して交渉なりなんなりするのだろうと。
「当たり前です。他でもない貴女が攫われたのですよ」
ベルが訝しげな顔をする。
「……でも、あの方には他に好いている女性がいらっしゃると」
王子の従者であるサムエルから直接聞いたのだ。ステラ嬢も言っていたので間違いない。
「私なんかのために危険を冒して、もし何かあったりしたら」
言いながら、フェルナードのぬくもりを思い出してぐっと胸が苦しくなった。
助けに来てくれるのは嬉しい。
嬉しいけれど、それを素直に喜べない自分もいる。
(私だけを想ってほしいなど――)
なんて欲張りなのか。
「姫」
俯いたイザベラの顔を上げさせるように、ベルの強い声がその名を呼んだ。
「私は王子の教育を間違えました。一国の主となるべく強く在れと指導してきたつもりでしたが、己に素直になれない挙句、貴方を傷つけるような若造に育て上げてしまったこと、心からお詫びいたします」
何故か謝罪された。しかもそこはかとなくフェルナードが馬鹿にされている。
「ですが姫、あの方は貴女を裏切ること、蔑ろにすることは決してありません。声を失い想いを簡単に伝える術をなくしてしまいましたが、あれには丁度良かったのです。きちんと考えて、想いを文字にすることを覚えましたから。不謹慎といわれようと、軍務に支障が出るといわれようと、貴女に関してだけは、はっきりとそう申し上げられます」
なんだかベルがとんでもないことを言い出している気がしたが、その眼差しが優しいのは彼女もまた、主であり教え子であるフェルナードを大切に思っているからだろう。
「ありがとう、ベル。私はフェルナード王子ともっと正面からお話すべきね」
素直に頷いたイザベラに、ベルも満足げに頷いた。
「あのお方も姫くらい素直であれば可愛げがあるんですがね」
ベルはベルである。