最愛の調べ~寡黙な王太子と身代わり花嫁~
顔の見えない戦い
それが聞こえたのは、空が夕焼けに赤く染まる頃だった。
薄暗くなった天幕の中で少し眠っていたイザベラを、ベルが小さな声で起こす。
多くの馬の嘶きと、男達の怒号のようなものが天幕の向こうから聞こえてくる。
「恐らく、王子達が到着したのかと。戦いになると思われます。私が合図したら、共に天幕の外へ」
戦いになる――。
その言葉に、イザベラは背筋がぞっとした。
血が流れること。
それはとても恐ろしいことだ。
炭鉱夫達が炭鉱に潜るたびに祈っていると、彼らの妻は言っていた。祈り、歌い、無事の帰還を祈るのだと。
あの暗く恐ろしい穴の中へ潜っていく男達と、戦いに身を投じる兵たちの姿が重なる。
「……戦いは、避けられないの」
イザベラの静かな声に、ベルはこくりと頷いた。
「西の国側の対応次第ですが、恐らく戦いになるかと。ステラ嬢ならともかく、貴女を連れ去ったとあっては王子を抑えられません」
どういう意味だろうか、とイザベラが口を開きかかけたとき、天幕のカーテンを乱暴に引いてエンデルが入ってきた。
ベルがすかさず前に立ちふさがるが、歩みを止めない。
「退け」
「姫に触れるな」
一触即発の空気の中、エンデルは腰に差していた剣を抜いた。
アステートのものと比べると随分と重そうで、エンデルが持つ剣にすら刃こぼれかが見える。兵達の剣などもっと酷いだろう。
(……西の国に、勝機はない)
武器の質だけがすべてを左右するわけではないが、武器のための鉱物を輸出していたイザベラにとって、それがどれだけ大事かもわかっている。
技術や覚悟、それらが及ばないところで差をつけてしまうものがあるのだ。
「イザベラ姫に危害は加えない。交渉の材料に使わせてもらうだけだ」
「ならばはじめから打つ手を間違えた。姫を捕らえた時点で、我が王子の慈悲は消えうせている」
エンデルとベルが睨みあっていると、外から金属音が響いてきた。
何の音かと考えるまでもない――イザベラは唇を噛んだ。
(……始まってしまった)
エンデルも気付いている。落ち着いているようだった顔に、苛立ちが浮かぶ。
「お前と問答している暇はない。早く止めないと取り返しがつかなくなるぞ」
エンデルの言うとおりだった。
剣と剣がぶつかり合う音、怒号、馬の嘶き、女達の悲鳴――それらは激しさを増していく。
「行きます」
イザベラの放った一言に、ベルが驚いて後ろを振り返った。
ベルが視線を外したにも関わらず、エンデルはイザベラをじっと見つめている。
「無用の戦いです。兵達を傷つけずに済むなら、私が参ります」
アステートの兵にも、西の国の兵にも、給仕の女性達にも、そしてステラ嬢にも、家族がある。
イザベラは炭鉱の国の女だ。危険に身を投じる男たちの無事を願い、祈りを捧げることが使命である。
(今は祈るだけじゃない。私にもできることがある)
腕のないアステートの兵士、指のない西の国の兵士。
そのどちらも、イザベラに笑いかけてくれた。
傲慢だと言われてもいい、欲深いといわれても、その笑顔をなくしたくない。
「感謝する」
エンデルは深く頭を下げると、イザベラの縄を切り落とした。
ずっと座ったままの状態からいきなり立ち上がるとふらついたが、ベルがすかさず支えてくれた。
「逃げる算段をしていたところ悪いな。お前もこい。イザベラ姫の盾となれ」
そう言ってベルを一瞥すると、エンデルはさっと外套を翻す。
簡単に背中を見せるエンデルに思うところがあったのか、ベルはもう何も言わなかった。
天幕の外に出ると、暗闇の中で人々が入り乱れ、誰が味方か敵かもわからない状態だった。
つい先程夕暮れかと思っていたのに、辺りはもうすでに暗い。
エンデルが舌打ちする。
「これでは、どこにフェルナードがいるかわからん」
確かに、焚いてあっただろう松明も地面に落ちて辛うじて燃えているだけだ。戦いに身を投じている人々の足元を照らしても、顔までは判別できない。
大声で叫んだところで同じだろう。怒号に掻き消されるか、聞こえても戦いの最中にに反応してもらえるとは思えない。
「私が探してまいります」
ベルが前に進み出たが、それをエンデルが止めた。
「やめておけ。こんな混戦の中に身を投じたところで、傷を負うだけだぞ」
「それが仕事です」
「それでもだ」
エンデルの言うとおりだった。
顔は見えないが、剣があちこちで閃いているのがわかる。
悲鳴も、肉を割く音も。
(王子、フェルナード王子――)
胸のうちでどれだけ呼んでも聞こえるわけがない。
顔の見えない多くの兵士達が、恐ろしかった。
きっとイザベラの知る者たちもいるだろうに、それがわからない。
ジェフもラフも、騎士団棟でお喋りした兵士達も、そしてきっとミカエルも。
イザベラは胸で拳を握り締め、震える唇をゆっくりと開いた。
『――下手くそ!』
フェルナードの顔が、今の成長したものから、あの日イザベラが歌を失った日のものへと変化していく。
あの冷たい眼が怖かった。
歌を必要とされていないことが悲しくて、つらかった。
けれど。
『いつか――』
あのデカンタに夕日が沈んだ夜。
いつか、の続きを、イザベラは期待してもいいのだろうか。