最愛の調べ~寡黙な王太子と身代わり花嫁~
エンデルの真意




声が出た。

歌の始まりを、大きく跳ねる心臓を無視して口にしたとき、イザベラはそう思った。
掠れた無様な声だったが、それでもイザベラの咽喉はちゃんと歌を紡いでいる。

(声が、出た)

人々の前になると、途端に声が消えてしまっていたのに、今はちゃんと、声が出ている。

はじめはたどたどしかった歌も、咽喉が馴染んでくれば昔のように伸びやかに声を出し始めた。
元々、一人のときは歌えていたのである。イザベラの歌が失われたのは、心に原因がある。
隣で、エンデルが驚きの顔でイザベラを見ている。
ベルも同様に、イザベラの歌に驚いているようだった。
歌はどこまでも届くものだ。
阻むものがない限り、人々の耳を打つ。

(皆は止まってくれるかしら)

心配ではあったが、それも杞憂に終わった。
人々が驚きに動きを止め、そして戦意喪失して歌に聞き惚れる。
やはり歌は偉大だ。

(どうか、この歌があの人にも届いていますように――)

イザベラの眼では、フェルナードの姿など確認できない。
どこか祈るような気持ちで歌を続けると、ふと目の前が開けた。立ち尽くしていた兵達が道を開けるように左右に割れたのだ。

え――と思う間もなく、黒い塊が飛び出してきた。翻ったマントから大きな手が伸びてきて、イザベラの体を勢いよく抱き寄せる。

(チョークの匂い――)

素早く剣を構えたエンデルに持っていた剣を振り下ろしながら、その黒い塊はイザベラをもう一度強く抱き締めた。
果たしてそこには、フェルナードがいた。
左腕でイザベラを守るように抱きしめ、右手ではエンデルを剣で抑えつけている。
あの美しい横顔を険しくして、金色の柔らかな髪はバンドで止めている。左耳のフェルナードの瞳の色のピアスが、闇の中微かに輝いていた。


「……フェルナード王子」

唄いだしよりずっと酷い声だった。
蟻の声かと思うほど小さな声でその名を呼んだイザベラに、フェルナードがエンデルから視線を外さないまま頬ずりする。

その冷たい頬と、熱い腕の中で、イザベラは込み上げる何かを堪えきれなかった。
おとなしく抱かれていたイザベラが嗚咽を上げ始めると、フェルナードもさすがに視線を移した。
イザベラの頬の上を、大粒の涙がぽろぽろぽろぽろと流れていく。
フェルナードはそれを眺めながら、イザベラに目立った外傷がないことを確認すると、己の腕の中でイザベラが涙している事実に場違いな感動を抱いた。

「なんだ、本当にただの強がりだったのか」

とうの昔に歌は途切れていたが、静寂を守っていた空気にエンデルの声が響く。
フェルナードがエンデルを睨みつけると、エンデルはそれを鼻で嗤って己が持っていた剣を地面に落とした。

「我が西の国の国境団はアステートに降伏する。戦闘は始まってしまったが、もう抵抗はしない。そちらも剣を下ろしてくれると助かる」

エンデルが両手を上げて降伏すると、西の国の兵たちも皆武器を地面に落とした。それも己から離れた場所に、何箇所かにまとまるようにして放棄している。敵意はない、武器は拾わない、との意思表示だろう。
はじめから、そのつもりだったのかもしれない。
その間にジェフとラフ、ミカエルが駆けつけた。

「おひい様……!」

すぐさまイザベラに抱きつこうとしたミカエルを、双子が邪魔しちゃだめですよ、と止めに入っている。
ミカエルならともかく、双子にまで泣き顔を見られるのは恥ずかしくて、イザベラはそっとフェルナードの腕の中に顔を埋めた。
それにいたく感動している様子のフェルナードに、エンデルが進み出る。

「その咽喉の傷で声を失ったと聞いた。謝罪はしない。私も生きるのに必死であった」

まさかの事実である。
フェルナードの咽喉の傷が、まさかエンデルによるものだとは。
思わずイザベラもチョークの香りの胸から顔を上げて両者を見比べたが、二人とも涼しい顔である。
フェルナードも戦場でのことは仕方ないものだと割り切っているのか、特に気にした様子もなくこくりと頷いただけで、その話は終わってしまった。
エンデルは丸腰の状態で、ひどく真面目な顔をした。
周囲の西の国の兵達も、皆がみな、緊張した面持ちを浮かべている。

「貴殿の大切なイザベラ姫を人質にしたことは謝罪する。どうしても貴殿と、貴殿が率いる兵士達に聞いて欲しい話があった。――アステートの軍神、フェルナード王子、我々西の国の革命に、どうか手を貸してほしい」

さすがに予想外の発言だったのか、フェルナードも反応できずにいる。
エンデルの発言が聞こえて騒ぎ出したのはアステートの兵士達だけで、西の国の兵士達はじっと何かを待っているようだった。

「我々は長い年月の間、戦いにすべてを投じて随分と消耗した。決して貧しくはなかった国も、今では民は餓え、上の者だけが私腹をこやしている現状だ。王は民の嘆きには気付いておらぬ。国面積を増やすことだけしか見えておらぬ。この国境団への物資も、とうの昔に途絶えた。我々はなんとか自給自足しながら生きてきたが、もはや限界が見えている」
「随分と都合のいいこと言ってますね」

エンデルの言葉を途中で遮ったのは、ジェフだった。
いつも飄々としているイメージの双子だったが、今はその面影はない。
エンデルは真っ向からそれを受け取り、弁解は口にしなかった。

「……そうだな、都合のいいことを言っている自覚はある。今まで犠牲になってきた両国間の者達には向ける顔もない」

エンデルはそう言うと、再びフェルナードを見た。

「だが、だからといってこのまま王の望むまま戦を続けるわけにもいかぬ。私は兵を、民を、これ以上苦しめたくはない。西の国第三王子エンデルとしてお願い申す、……どうか、私の話を聞いていただけないだろうか」

多くの観衆の下、とんでもないことが語られている。
エンデルは要するに、クーデターを起こすと言っているのだ。それも、アステート協力の下。


フェルナードは少し考えた後、胸に抱いていたイザベラを見た。
イザベラもじっと見つめ返す。
意図はわからなかったが、まるで検分するようにイザベラを見ると、フェルナードは顔を上げて無言でジェフを呼んだ。
フェルナードの口だけが動く。
その動きを読みながら、イザベラはいくつかの単語を拾う。

『兵士達の手当て』
『話し合いは後ほど』

途中、なにを話しているのかわからないところはあったが、恐らく戦で傷ついた兵士達の手当てをしたあと、話し合いの席に着くということだろう。
そのことに、イザベラは少なからずほっとした。
叶うなら、フェルナードにはエンデルの話を聞いて欲しかったのだ。協力するかどうかは別として。

「わかりました。それを伝えればいいんですね」

ジェフは既にいつもの彼に戻っていて、部下の顔でフェルナードの指示に従った。
エンデルにジェフがフェルナードの言葉を伝えている間に、ラフは大きな声で「ステラ嬢ー!」と叫んでいる。見当たらないので、強硬手段に出たらしい。返事がないので、心配なところであるが。


「ありがとう。感謝する。まずはそこのお姫様を泣き止ませてやれ。今回一番の功労者だ」

ジェフといくつか言葉を交わした後、エンデルは顔を上げてそう言った。
その言葉に、フェルナードが言われなくても、と睨み返している。既に涙は止まっていたが、フェルナードの胸に顔を押し付けられていてなにも言えなかった。
それに、この状況でフェルナードと二人きりになれるなら、他に望むことはない。

「私の天幕を使うといい。出来れば、言葉と抱擁で慰めるだけにとどめてもらいたいが」

それを横で聞いていたベルが、下品な、と容赦なく舌打ちした。




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