最愛の調べ~寡黙な王太子と身代わり花嫁~
イザベラの告白



天幕の中に入ると、ベッドではなく布と綿で作られた簡易のソファに誘導された。
そこに座らされたイザベラの前にフェルナードが膝をつく。
外は夜だが、部屋の中に置かれたいくつかの小さなランプのお陰でお互いの顔を見ることができる。
ランプに照らされいつもより濃い新緑色の瞳が、じっとイザベラを見つめていた。

『イザベラ』

フェルナードの唇が、微かに動いたのをイザベラは見逃さなかった。
音はなくとも、確かに呼ばれた己の名前に体温が急上昇する。

『……無事でよかった』

イザベラの膝に置かれた手にフェルナードの手が重ねられ、まるで祈るように、その甲に傅かれた。
いつも背筋を伸ばしている彼が、イザベラに縋るように頭を垂らしている姿はひどく憐れに見える。ともすれば可愛らしく見えるその小さくなった肩にそっと手を伸ばして、イザベラはフェルナードの頭を抱きしめた。
フェルナードの頭がびくりと跳ねたが、拒否はされない。

「……迎えに来てくれてありがとう」

小さく囁くと、フェルナードの腕がイザベラの腰に回った。
その大きくて長い手に抱きしめられると、イザベラはいつも、言葉にしがたい想いに駆られてしまう。

「王子こそ、怪我はない?」

途中で止めることができたとはいえ、戦は始まっていた。その際に負傷していたっておかしくない。
イザベラの問いに、フェルナードはふるふると頭を振った。
そうして名残惜しげにイザベラの胸から顔を上げると、ぐっと上体を伸ばしてイザベラの額に小さく口付けを落とす。

「……っ」

冷たい空気の中、馬を駆って走ってきてくれた彼の唇は擦れていて、冷たかった。
そうして赤くなったイザベラの横に腰掛けると、見慣れた持ち運び用の黒板を取り出した。

「やっぱり。さっきチョークの匂いがしたから、持ってきてるのかな、って思ったの」

その黒板にはいい思い出しかないイザベラは、それが見れたことですっかり安心しきってしまった。
嬉しくて笑うと、フェルナードが眼を細める。

『怖い思いは?』

いつものように美しい文字で書かれた言葉に、イザベラは頭を横に振る。

「山賊やエンデル王子に連れてこられたときは怖かったけど、エンデル王子にはよくしてもらったと思う。給仕のアターシャには体を綺麗に拭いてもらったし、小さな傷も手当てしてもらえたよ。あ、ステラ嬢のお世話もしてもらってた」

山賊に連れて行かれるより、余程いい環境だっただろう。
イザベラがそう言うと、フェルナードは安心したような、納得いかないような、不思議な表情を浮かべた。

「……どうしたの?」

いつもの彼らしくない反応だ。
フェルナードは迷ってイザベラから少し体を離すと、躊躇いがちにチョークを動かした。

『エンデル王子と仲がよさそうだと思って』

まさかの嫉妬だろうか。
イザベラはどきどきしながら、フェルナードの手を握った。

「最初は怖かったけど、話してみたら普通の人だったから。戦ばかりの現状と王の命に苦悩して、民と兵を守りたいって言ってたよ。兵士の人たちにも慕われているみたいだった。その姿がね、フェルナード王子と重なったから。だから、エンデル王子の話を受け入れてくれて嬉しかった」

だから何にもないのだ。
イザベラが好きなのは。

一番、怖かったのは。

「……フェルナード王子に会えないかもしれないことが、一番怖かった」

その恐怖を、思い出すだけで心臓がじりじりと締め付けられるほどつらい。
イザベラの言葉に、フェルナードの腕が再び伸びてくる。
それなりに大きなソファの上で、ひとつになるくらいぎゅうと強く抱き合った。
チョークと汗と、少しの血の臭いがする。
フェルナードがつけている胸当てが硬くて痛かったが、そんなことどうでもよかった。
イザベラを抱きしめてくれる腕が、フェルナードのものだと思うだけで、一番の幸せを感じることができる。

「……あのね」

フェルナードの肩に顔を埋めながら、イザベラは小さな声を出した。
その声にどこか不穏なものを感じたのか、フェルナードがゆっくりと腕を緩め、暫しふたりで見つめあう。
その瞳の揺らめきを見ていると、唇が固まって動かなくなってしまった。
けれどベルにも言った。

(私は、もっとちゃんと、王子と話をするべきだわ)

意を決してイザベラは口を開いたが、その内容はフェルナードの心臓を限界まで冷たくした。

フェルナードには他に想う人がいること、イザベラはその人を娶るまでの間に合わせの姫であること、王子の優しさに甘えていてはいけないと想っていること――。

そのような内容のことを、イザベラは小さな声で話した。
怖くて俯きながら話していたので、フェルナードがどんな顔を浮かべているかなど気付いていない。お互いにとっての幸いである。

一通り話し終わると、沈黙が降りた。
天幕の外から、兵達の声が聞こえる。
その中にステラ嬢と思わしき金切り声が聞こえてきたが、イザベラは今だけは聞こえない振りをした。

(……どうしよう)

伝えたいことはまだあるのだが、変なところで話を止めてしまった。
俯いていたせいでフェルナードがどんな顔をしていたかもわからない。それが怖くて、話の再開などとてもできそうになかった。
イザベラが頭を必死に回転させていると、フェルナードのチョークが黒板の上を滑った。

『その話は誰から?』
「サムエルとステラ嬢です……」

まるで責められているような気分である。思わず出会った当初のような敬語になってしまった。
イザベラの返答を聞くと、フェルナードから舌打ちが漏れた。
なにやら相当まずいことを口にしてしまったらしい。

「あ、あの、でも」

イザベラは意を決してフェルナードを見上げた。
彼がどんな顔でこの話を聞いているのか、確かめたかったからだ。

「……あの、」

言葉に詰まった。
ひどいかお、と言えばいいのだろうか。
唄うことしかできないイザベラには、それしか思いつかなかった。
悲しそうな、つらそうな、苦しそうな、痛々しいような。

ひどいかお。

そう思ったら、イザベラの強張っていた肩から力が抜けた。

「でもね、貴方を見ていたら、そうじゃないんじゃないかって思ったの。貴方の優しさには裏表がなくて、私を身代わりでも間に合わせでもなく、きちんとイザベラとして扱ってくれたから。咽喉の傷に触れさせてくれたことも、……キスにも、貴方の嘘なんて見当たらなかったと、思う。貴方は、想い人がいるのに他の女性にそんなことを許すような人には、見えないから」

ほんの短い時間の中で、彼の人となりをイザベラなりに見つめてきた結論がそれだった。
彼の瞳の中の熱に気付かないほど、イザベラは鈍くはないつもりだ。

「貴方を何度も諦めようと思った。他に好きな人がいることが事実でも、想いに応えてもらえなくても、それでも私、貴方のために歌いたかったの」

話しているうちに涙が出てきてしまった。
その顔で泣き笑いを浮かべると、フェルナードの顔が益々ひどくなる。
剣だこのある手が伸びてきて、イザベラの頬を撫でる。
涙が滲む目尻を優しく撫でられると、嬉しくて自然と笑みがこぼれた。

「私、歌えないの。三年前から歌えなくなっていて、ずっと貴方に嘘をついていた」

ごめんなさい。
許してもらえなくてもいい。
それでも、もしフェルナードが聴いてくれるなら、聖歌でも炭鉱の歌でもなく、恋の歌を唄いたい。

涙交じりの笑顔を浮かべながらいじらしいことを言うイザベラに、フェルナードは撃沈寸前だった。

もしかしたらこれが最後になるかもしれないと欲深くもその唇にそっとキスをすると、三年前の事の顛末を話す覚悟を決めた。





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