最愛の調べ~寡黙な王太子と身代わり花嫁~
フェルナードの告白



――些細なことだった。

幼いころから軍事と戦にどっぷりと漬かってきたフェルナードは、年齢のわりどこか幼く、未成熟な部分があった。何事にも無感動で、己より体の大きなものに剣を振るうことも恐ろしくはなかったし、戦場で雨のように矢が降る中、馬を駆ることも平気だった。

人の機微に鈍い、とは教育係のベルによく言われていた言葉だ。
あまり人や物事に左右されない、何にも執着も見せない、感情の振り幅の少ない人間に育っていた。
将であるならそれでいいだろうと、周囲も本人も特に気にしていなかったのだが、容赦なく運命の日はやってきた。


三年前のあの日。

隣国のエルゴルからやってきた歌姫。
第一印象は覚えていない。屈強な民が多い鉱山の国の姫というからには筋肉質な女かもしれないと思っていたが、それを裏切られた覚えはある。
淡々と軍部のトップとして歌姫を迎え入れて、昨夜急ごしらえで作った舞台へと案内した。戦で疲弊しているときに何故こんなものに人員を割かなくてはならないのかと、少し不愉快に思ったのを覚えている。
歌姫を舞台に上げてしまえば、フェルナードの仕事は終わりだった。あとは兵士達に混じって、適当に聴いて終わったらまた迎えに行けばいい。

ところが歌姫は、いつまで経っても歌わなかった。

騎士団棟の大広間に集めた兵士達は、程度に差はあれどほぼ全員が怪我人である。
かすり傷の者もいれば、手足を失った者もいる。眼をやられた者も少なくなく、観劇はできないとの理由で歌姫が呼ばれたのだ。耳だけなら、辛うじて全員使い物になった。片方しか使えない者もいたが。

エルゴルの歌姫は、舞台に立ち尽くしたまま兵達の顔をひとつひとつ、じっと見つめているようだった。
その顔には笑顔なのかなんなのかわからない複雑な表情が貼り付けられていて、あまり表情筋を動かさないフェルナードにはとても印象的にだった。

器用な女だ、と思ったような気もする。
笑顔のようで笑顔ではなく、だからと言って冷たくも見えない。

なにかを語りかけるように広間の兵士達を見つめ終わると、歌姫はゆっくりと瞼を閉じた。

そのあとのことは、正直あまりよく覚えていない。
ただ、その圧倒的な歌声に、衝撃を受けた。
それは物悲しくも美しい旋律で、広間の兵士達の心臓を鷲掴みにした。

フェルナードも例外ではなく、歌姫の容赦のない歌声にただひたすら圧倒されたのである。
こんなものがこの世に存在するのかと、恐ろしくも思った。

一曲目は静かな歌だった。啜り泣きをする者もいる。
そうして歌は徐々に明るくなっていき、祈りの歌から鉱夫たちが好んで唄う民謡にまで及んだ。
そこまでくると、兵士達も盛り上がりを見せ、口笛を吹く者や舞台に上がって歌姫の手をとり、踊りだす者までいた。
歌姫もそれを心底嬉しそうに受け入れて、決して上手くはないステップを踏んで兵達を喜ばせた。

フェルナードはそれを一番遠いところから見ながら、心穏やかではない自分に疑問を抱いていた。
あの歌声を、誰にも聴かせたくない――。

初めてのことだった。感情の奔流のようなものが、己の中に渦巻いている。


「……あ、」

歌姫が笑う。
笑う口から、優しい歌が聴こえる。
既に舞台から降り、兵士達と同じ目線に立ちながら、屈強で血生臭い男達に埋もれるようにして歌っている。

それが何故か、とても許しがたい光景に見えたのだ。

彼女は慰安という目的を完璧にこなしているというのに――、フェルナードの心中は、〝おもしろくない〟だ。

彼女が他へ笑いかけるのが気に食わなかった。
彼女の歌が他の人間にまで影響を与えているのが気に食わなかった。
歌を捧げられるのも、笑みを向けられるのも、私一人でいい――。

唐突に浮かんだその考えに、一番戸惑ったのはフェルナードである。
盛り上がる兵士達の影で、フェルナードは密かに嫉妬していた。
もやもやとした経験したことのない感情は、フェルナードの中でどんどん膨らんでいく。

歌姫が歌うたびそれは大きくなった。
歌姫が笑うたび、それは増えていった。

そうしてそれが爆発したとき、フェルナードの口から飛び出した。

「下手くそ!」

自分でも何を叫んだのか理解できなかった。
子供じみた、いや子供そのもののような稚拙な言葉を投げつけて、歌姫の歌を中断させた。こんな言葉を吐き出したのも初めてである。

彼女は誰がそれを口にしたのか気付かなかったようだが、先程まで楽しそうに笑っていた顔が急に冷めて、青白くなった。

しまった、とは思ったが、歌を中断させられたことに灰暗い喜びすら抱いて、フェルナードは益々己が解らなくなる。

とはいえ、兵士達は当然誰がその言葉を発したのか気付いている。あの無感動な王子がどうした、と側近の兵士達も驚きを隠せないでいるようだった。
一番驚いていたのはフェルナードだが。

そう叫ぶことで、彼女の歌を独り占めしたいと思った。
彼女が他に歌って聴かせるのが許せなかった。

自分の言葉に彼女が支配されらなら、それはとても幸福なことのように思えたのだ。
後に、歌姫に失礼なことを叫んだ馬鹿者として多くの者から仕置きを受けたのだが。

歌姫は青白い顔を浮かべて、それでも歌を続けた。
今にも涙を流しそうに震える声がひどく愛らしく、またも未知の感情に苛まれたフェルナードは己がどれほどのことをしでかしたのか、この時はまだわかっていなかった。


歌姫が帰ったあとも、フェルナードの感情は静かに渦巻いていた。

フェルナードの稚拙な野次にも負けず、最後まで歌いきった歌姫を送り出す栄誉は他の者に任せた。
彼女を目の前にして、平静でいられる自信がなかったからである。

歌姫の慰問訪問が終わった後、多くの兵士達に呼び出され、何故あんな真似をしたのかと問い詰められた。
幼いころから軍部に携わっているフェルナードは、多くの兵士にとって愛想のない息子か弟のようなものなのである。

正直、自分でも疑問だったので包み隠さず話すと、大半は呆気にとられたあと爆笑し、一部は救いようがない、と呟き、あとの残りは赤面した。

好きな子をいじめる子供ですね、とはベルの発言である。

そうして皆から素振り一万本と騎士棟周辺の二十週の駆け込み、一ヶ月の書類仕事を言い渡された。
それらを淡々とこなしながら、フェルナードの頭の中はイザベラのことでいっぱいだった。
名前も、素振り一万本のあとにベルに教えてもらってやっと知ることができたのである。

(イザベラ、エルゴルのイザベラ姫)

まるで暗号のように、フェルナードの頭の中でそれらは泳ぎ回っていた。

一月が経ち、とうとう我慢できなくなってごく一部の者にだけ行き先を告げ、一人エルゴルへと向かった。
この先にイザベラがいることを思えば、山脈の険しさなど苦にもならない。

フェルナードは、一度の入国でそう長くは滞在できない身分である。
エルゴルに単独で赴く際は、大量の仕事を終わらせてから出てくる。そうしたことを繰り返していたら、いつからかエルゴルの入国審査でも顔パスされるようになった。ついでに生温い視線まで感じるようになったが、害もなかったので気にも留めなかった。

当然、フェルナードの視界に入らないところで護衛はついていたが、視界に入らなければないも同然である。フェルナードは堂々と不審者に徹して、イザベラを見つめ続けた。

イザベラは姫というには身軽で、国民にとってとても身近な存在のようだった。
街に入ってすぐその姿を見かけたのだから、アステートとエルゴルでは国の成り立ちから違うと気付かされる。

エルゴルの王族は、国そのものだった。

普段は城にいるが、必要があれば王自ら鉱山へと赴き、新しい坑道を開くときは現場の鉱夫達と夜遅くまで話し合う。
王である前に優秀な技術者だという王を、皆が信頼しているようだった。命に関わること故に、たまに白熱して王と国民が口喧嘩を始めるのだから、どこまでもアステートとはちがう。

それは娘のイザベラも同様だった。
鉱山で発掘された銅の加工や鉱物の用途を話し合ったり、時には女達の畑仕事を手伝い、鉱夫達の食事の世話をする。その際、食事だって共にするし、鉱夫の妻達が作ってきた手作りのものを平気で口に入れる。毎回毒見係りが毒見をしてから食事が出されるアステートとはやはり違う。
王族であるはずのイザベラが、国民の家に頻繁に出入りして、長話をしたり泊まったりもする。

鉱山を生業としている国民に、真実その身を削って尽くし、寄り添う。
恐らく、ここまで顕著に王族の働きが国民に伝わっている国は他に類を見ないだろう。

イザベラを通じて、エルゴルという国にも興味が湧いてきた頃、フェルナードは気付いた。

――イザベラが、全く歌を歌わなくなっていることを。

とはいえ、あそこまで影響力のある歌である。そう頻繁に歌うものでもないか、とフェルナードは軽く考え自己完結させた。

それに、もはや歌などイザベラという存在への付属品でしかなかった。
フェルナードの中でイザベラはとてつもなく大きな存在になっていて、独りよがりではあるが、イザベラを見つめすぎて知らぬことなどないまでになっている。
肌の上に散る薄いそばかすひとつひとつですら愛しい。

そうして張り込み続けてどれほど経ったのか。
たまたま城の庭に入り込み、王と執事長ミカエルの話を聞いて、背筋が凍った。

「やはり原因はそれか――」

王の重い声に、ミカエルの言葉が続く。

「おひい様もやっと話してくださいました。アステート公国への慰問の際、兵の一人に下手くそと叫ばれて以来、こわくて人前で歌うことができなくなってしまったそうです」

それを聞いたときの衝撃たるや、言葉にできない。
イザベラが歌えなくなった原因は、まごうことなく自分である。

「おひい様は鉱夫たちの妻が歌う歌が一番と思われている節がございます。故に、ご自身の歌が特別なものとは自覚していらっしゃらなかった。加えて一国の姫という身分が、素直に歌を褒められていると思うことを邪魔していたのでしょう」

元々、イザベラは少し自信のない女の子であったのだ。
己の歌に天狗になることなく、いつも謙虚に歌ってきたイザベラだが、それは自信のなさからくるものである。

それを聞いた後、茫然自失となったフェルナードはふらふらと街の外れを訪れた。
そこはイザベラがよく休憩する場所で、小さな草原と、それを眺めることができる小さな切り株がある。

果たしてイザベラは、そこにいた。
まだ昼。いつもは忙しく走り回っている時間だろうに、そのときは何故か、イザベラはそこにいたのだ。

切り株に座っている後姿を見ながら、フェルナードは居たたまれない想いで立ち尽くした。
今にも彼女から、あの優しい旋律が聞こえてくるのでは、と根気強く待っていたが、いつまで経ってもそれは叶わなかった。

何度か歌おうと試みるような動きを見せたが、歌が聴こえてくることはなく、徐々にイザベラの頭が下がり、ついには肩を震わせて泣き出してしまった。

その衝撃たるや、さきほどの比ではない。

その日はどうやってアステートに帰ったか覚えていない。





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