最愛の調べ～寡黙な王太子と身代わり花嫁～

「どんなに完璧でも、けちをつけたくなるのは人間の性ですからね。そんな小さい輩の目を逸らすためにも、貴女にはフェルナード王子の歌姫としてきっちりと役目を果たして頂きたいのです」

とんでもないことを言われている。

「何故そこで赤くなる」

サムエルが心底呆れたような声で言っていきたが、イザベラは顔を上げられなかった。
〝フェルナード王子の歌姫〟などと、なんだか彼のものになったような気がして照れくさい。


「……王子、私はもう下がりますので、あとは貴方の口からどうぞ」

呆れかえりすぎたのか、サムエルは溜め息を吐きながら部屋を出て行ってしまった。

途端に沈黙が落ちる。
なにを話せばいいのか。
声を持たない彼を相手に、不躾に話しかけていいものか。迷惑じゃないだろうか。会話は、どのようにすればいいのだろう。
困り果てて手の中のグラスを捏ね繰り回していると、フェルナードが不意にチョークを手に持った。

『サムエルの言うことは、あまり気にしないでほしい』

とは。

イザベラが不思議そうに首を傾げたからだろう、フェルナードは白い言葉を付け足した。

『いやなことはいやだと、はっきり断ってくれていい』

まさか、そんなことを言われるとは思わなかった。

言葉をかけてもらえない、声を聞かせてもらえないと悲観していたのが嘘のようだ。
こうして言葉を交わしてみれば、彼はとても優しい人だというのがわかる。

先程の舞踏会でもそうだった。
イザベラの心を思って、アルゴルの歌を聴かせてくれた。
イザベラのために、動いてくれた。

（それなら私は、彼のためになにができるのかしら）

テーブルの黒板に書かれた文字をじっと見つめて、イザベラは自分なりに考えてみた。

「……いえ、お話はよくわかりました。私は、歌姫として、貴方の隠れ蓑となればいいのですね」

西の国との戦いが収まるまで――それがいつまでかかるかわからないが、恐らくそれまでは、イザベラは彼の隣にいられるのだろう。

（式が延期されたのも、はじめからそのつもりだったからだわ。すべてが収束すれば、私は役目を終えて国に帰される……）

まさに政略という名に相応しい結婚ではないか。いや、結婚にすら辿り着いていない。

（取引、とでも言えばいいのかしら。父の裏切りの代わりに、私は彼に尽くす）

顔を上げると、薄暗い室内で揺らぐ緑の目とかち合った。
その目はなにか言いたげだったが、結局唇が震えただけで音にはならなかった。


「……痛みは、もうないのですか」

一年半前ならば、とっくに完治しているだろうに、イザベラはそんなことを口にしていた。
フェルナードが少し驚いた顔でチョークを握り、テーブルの黒板に文字を書く。

『今はもう痛みはないが、雨の日などは少しじくじく痛むこともある』

イザベラは、古傷がたまに痛むと鉱夫が口にしていたの思い出した。フェルナードそれも、同じようなものなのだろうか。

「……アルゴルでは、古傷に温かい布を押し当てて痛みを軽減させていました。こうして、喉を手で覆って温めると、血の巡りがよくなって痛みが軽くなるかもしれません」

炭鉱に潜るのは大変な仕事だ。だからこそ怪我も多くある。そういったとき、鉱夫達は自分の手や妻の手で、その傷を温めて痛みを和らげるのである。

「特に、妻に歌ってもらいながら温めてもらうと、痛みなど吹き飛ぶと皆言っていました」

あの筋肉だるまの執事長もそんなことを言ってのろけていた。独身者にすれば許しがたいのろけだが、イザベラは純粋にそのやりとりに憧れたものだ。
いつか自分にも伴侶ができて、もし彼が古傷が痛むと言ったら――などど、乙女の妄想よろしく考えた。
そんな妄想でにやにやしていた自分を思い出し、イザベラは思わず笑ってしまった。
そんなイザベラの耳に、チョークの音が届く。

『……では次痛んだときは、貴方にお願いする』

笑顔なんか吹き飛んだ。

代わりに沸騰するかと思うほど顔が熱くなり、言葉もなくしてフェルナードを見つめてしまう。
俯いていているフェルナードの表情は見えなかったが、その耳が少し赤くなっているような気がした。
予想だにしなかった展開に、イザベラが、あ、だかう、だか言っていると、フェルナードがゆっくりと顔を上げた。

目が合う。

蝋燭の灯りがフェルナードの瞳に映りこみ、まるで深い森に炎が宿っているようだった。

自分の中で、徐々に浮かれた熱が引いていくのがわかる。
お互いに、何を話せばいいのかもわからず、ただ見つめあっていた。
フェルナードの眼差しは、凪いでいて、強い。

（あんなに大きな傷を負っているのに、この人はとても強い）

声を失ったことなど感じさせない。
堂々と、己の姿をまっすぐに見つめられる人だ。

（人の評価に怖気づいて、歌えなくなった歌姫とは違う）

美しくて、強い。
あの日からまったく変わらない、美しすぎて、何を考えているのかわらかなくて、少しこわい。

（そんな彼のために、私はなにができるだろう――）

彼の傷を温めてあげたい。
けれどそれ以上に、なんらかの形で彼の助けとなりたい。


「……晩餐での、私の言葉を覚えていらっしゃるでしょうか」
美しい人を見つめながら、イザベラは己の気持ちに忠実に、そう口にしていた。

「秘密を教えていただいた今、あの言葉を一層強く意識いたします。貴方のために私が役立つのなら、どんなことだってやりましょう」

イザベラは決意を持ってそう口にした。
どんな結果が待ち受けていたとしても、彼のためにできることを尽くそう。

フェルナードは少し驚いたように瞠目して、そして少し迷うように、チョークを持った。
カッカッと小気味いい音が響き、白い文字が綴られる。

『ご協力、痛み入る』

その他人行儀名な言葉が、イザベラには酷く痛かった。




そのあと、数刻もしないうちにフェルナードの自室を辞すことになった。

本音を言えばもう少しゆっくり話をしてみたかったが、そもそも舞踏会の最中である。イザベラは部屋に戻るようフェルナードに言われたが、フェルナードはどうやらまた舞踏会会場へと戻るらしい。

「わたくしも行きます」

一応は、イザベラとフェルナードの結婚祝いの舞踏会となっている。
そんな舞踏会に、フェルナード一人を戻らせることなどできない。

『あの流れで戻ってはまた歌をせびられる。今日はもう休むといい。こちらでうまく言っておく』

部屋を出る間際、入り口に一番近い黒板に書かれたそれに、イザベラがなおも反論しようと口を開いたとき。

『おやすみ、イザベラ』

フェルナードはそう手早く黒板に書くと、イザベラの手の甲にキスをして反論を封じた。
慣れないことにがちりと固まったイザベラの横をすり抜け、音もなく部屋を出て行く。
フェルナードから香るそれと同じ匂いが充満する部屋にひとり取り残されて、イザベラは火照った頬をもてあまし、暫くその場に立ち尽くしていた。

視線の先には、フェルナードが書いた〝イザベラ〟。
声のないフェルナードに、初めて〝呼んで〟もらった名前。

（……自分の名前が特別に見える）

きっとそれは、美しい文字だからというわけではないのだろう。

続きの間の騎士が様子を見に来るまで、イザベラは熱に浮かされたように、ずっとその文字を眺めていた。