夕星の下、僕らは嘘をつく
電話を疑うも、両手はコートのポケットに突っ込まれている。
まさかハンズフリーでもあるまい。

それに、どうやら彼はなにかを見ている。しかし彼の視線の先にあるのは桜の木と空だけだ。
となるともう独り言ぐらいしか考えられない。

 
やっぱり引き返そう。
そう決めたとき、彼の視線が落ちてこちらを向いた。

距離はあるのに、はっきりと見える、彼の瞳。
 

途端自分が立っている地面が波打つみたいだった。

歩みを止めて脚に力を入れる。
平衡感覚がわからなくなって、ふらふらと意識が漂う。

だけどもちろん実際にはなにも変わってはいない。
地面はちゃんとあって、私はそこに立っていて、その延長線上に彼がいる。
 

彼は私に気がついた。
でも驚いた様子は見せなかった。かわりに微かに口角が上がっている。
何度もまばたきをしたあと、息を吐いた、ように感じた。

どうしてわかるかって、私も息を吐いたから。
お腹じゃない、胸の奥深くからなにかを抱えた吐息を。
 

止まっていた足を動かし、彼へと近づく。
彼もまたゆっくりとこちらにやってくる。
「おはよう」
あと二メートル、というところで彼が笑った。
昨日と同じコートを着ている。
 

私はそれに挨拶を返し立ち止まる。
あと一メートル、深く息を吸った。

「一ノ瀬、湊、くん、ですか」
 
二度あることは三度ある。
そのことばが本当になったのなら、これはもうなにかしらの縁が働いているのかもしれない、なんてバカバカしいことを考えていた。
運命とか幽霊とか宇宙人とか信じないけど、私。


「俺のこと知ってるの?」
その答えはイエスなのだろう。やっぱり一ノ瀬くんだった。
緩みそうになる唇をぎゅっと噛みしめて我慢する。

「私、葛西晴です」
覚えてますか、そう問おうとして口をつぐんだ。
彼の表情が芳しくなかったからだ。

やっぱり覚えていないのだろう。
私はわざと笑って見せた。


「そういえば昨日は自己紹介してなかったね」
一ノ瀬くんも笑う。
その声に相変わらず色はない。無色透明。
本当ならそれが普通だというのに、今は私の心をざわつかせる。


「あの」
四度目があるかどうかはわからないけれど。

「もしかして、死のうとしてませんか」
 
素直に、知りたくなった。その声が無色である理由を。
 
風で雪が舞った。きらきらと、きらきらと。
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