ホテル王と偽りマリアージュ
――椿。


「……椿、大丈夫か!?」


自分の唸り声の合間に、そんな声が聞こえてきた。
やがて唸り声より、私を呼ぶ声の方がリアルで鮮明になってくる。


「椿っ!」

「ん、んんん……」


鉛のように重く感じる目蓋を、なんとか持ち上げた。
額の筋肉を動かし、声が聞こえる方向に目線を向けようとする。
その時になって初めて、額になにか冷たい物が貼られているのに気付いた。


「椿!」


もう一度、私を呼ぶ声。
ぼんやりと天井を見上げる私の視界を遮って、誰かが私を覗き込んでいるのがわかった。


一度ぎゅっと目を閉じ、定まらない焦点を合わせようとする。
何度か瞬きしてから、ようやく視界にその輪郭が浮かび上がったきた。


「一哉……?」


自分の呼び掛けに、無意識に首を傾げた。


「あれ、どうして……」


一哉は確か、まだニューヨークに出張中のはずなのに……。


私の思考を読み切っているかのように、声が続いた。


「仕事早く片付いたから、一日早く帰って来れた」


ぼんやりしていてもわかるくらい、耳に馴染んでしまった一哉の声。
確かに一哉が帰ってきて、今この寝室にいるということを実感出来た。
< 73 / 233 >

この作品をシェア

pagetop