言えなかったありがとうを、今、伝えます。

急に視界が明るくなった。
ここはどこだろうか。
見回してみて分かったのは、方向も高さもない、真っ白な空間であるということだけだ。
「春馬くん。」
声がした。
小さくか細い、不安げな声音。
何も変わっていない。
思わず顔がほころぶ。
高2の俺はゆっくりと振り返った。
「やあ、早耶香。」
清々しい気持ちで、俺は応える。
「さっき見てもらったように、私はあの時春馬くんを救けるために身を投げ、そこで命を落としました。」
早耶香は俯いた。
「ああ。」
あまりにも平凡な俺の返事が心外だったのか、俯かせたばかりの顔をまた上げる。
その頬を、涙が伝う。
「私は死んだ後、春馬くんを救けることが出来て嬉しかった反面、春馬くんに責任を感じさせてしまうのではないかと思い、神様にお願いして、私の存在は無かったことにしてもらったの。みんなの記憶から、私を取り出したの。」
だからあのアルバムみたときに違和感があったんだな。
ていうか、神様なんてものがほんとに存在するとは。
俺はそこに驚いた。
「神様って本当にいるんだなぁ。驚いたよ。」
俺は率直な感想を述べる。
すると早耶香は、泣き顔のまま少し笑った。
「うん、まあね。でね、私達死んだ人は、死にました、はい終わり。じゃなくて、やらなきゃいけない事があるの。それは、恩返し。」
「恩返し?」
俺が聞き返すと、早耶香は頷いた。
「そう。生きてる間にいちばんお世話になったっていうか、感謝を伝えたい人一人だけに、恩返しをしにいくの。生きてたら今こんな姿だったっていうカタチになって、実際に下界に降りるんだ。」
「それで早耶香が選んだのが俺ってことか。でも、俺、恩返しされるようなことしたか?」
「さっき見たでしょう。5年生の時、いじめられていた私を助けてくれた。あれが、私にとってはすごく嬉しかったの。私の家は母子家庭で、当時母は男性らと遊んで1日中帰ってこなかったりした時も多くて。それが知れて学校でもいじめられるし。そのときの私には居場所が無かったんだ。それでもう死んでしまおうと思い、あの山に忍び込んだの。まだ朝早かったから誰もいないと思って。そしたら春馬くんたちがいるんだもん、びっくりしたよ。」
早耶香はそこで、声を上げて笑った。
つられて俺も笑う。
「でね、春馬くんの足元が崩れかけてることに気づいて、どうせなら恩返しをして死のうと思った。だから戸惑いなく飛び降りられたんだ。」
あのとき早耶香に助けられなかったら絶対死んでたな。あの高さだし。
あ、首筋の傷もきっとそのときできたんだな。
「え、でも、だったらそのときに恩返しできたってことになんねーのか?」
恩返しのつもりで助けてくれたんならそれでいいはず。
「あれだけじゃ足りなかったから。それに、恩返しは絶対だけど他に恩返ししたいと思う人がいなかったっていうのもあるかな。」
微笑んだ早耶香の顔から、涙はもう消えていた。
「私たちは、下界で任務を終えたあと、恩返しをした相手に自分の口から感謝を伝えたら、天に連れ戻されるの。私はあの事故から春馬くんを守ることで、任務を終了した。だから、ここでお礼を伝えたらもうお別れなんだ。」
「それが任務だったんだ。だから守りきれなかったって言ったんだな。怒鳴って悪かった。」
「ううん、いいの。にしても、春馬くんはいい友達をもったね。凌平くんに輝晃くん、莉愛ちゃん、楼莉ちゃん。みんなすっごくいい子達だよね。正直、羨ましいな。でも、私はもう逝かなきゃね。わたしが消えたら、春馬くんはもとの世界に戻っているはず。戻ったらまた私のことは忘れちゃうけど、気にしないで。死んだ人との交流をおぼえていることは、下界の掟に反するから。」
「みんなが早耶香の存在を忘れてしまうのか...?」
「そう。これは、決まりだから。何も残せないけど、ごめんね。」
「そんな...俺もう忘れたくないっ...!」
「ごめんね。それと、そろそろお迎えが来たみたい...。小説とかならここで『私の分まで頑張って生きて』とか言うんだろうけど、私、実際死んでみて気づいたんだ。頑張らないで生きようなんて無理なんだって。みんな、頑張ってるんだよ。だから、頑張ってる人に頑張ってって言うのは失礼だなって。だからね、私はこう言うの。『私の分まで“楽しんで”生きて』って!」
そこで彼女は大きく息を吸った。
そして、最高の笑顔で。

「──ありがとう!」

どこからか飛んできた金色の蝶が、早耶香の足元をクルクルと回る。
金色の光に包まれた早耶香の足は、徐々に薄くなってゆく。
俺は何も言えず、ただ黙ってその光景を眺めていた。
そんな俺を見て、早耶香がまた笑う。
ふっと涙腺がゆるんだ。
泣くもんか。そう思って歯を食いしばる。
それでも溢れ出る涙は、ひとつ、またひとつと、俺の瞳から零れ落ちた。
「泣かないで。わらって。生まれ変わって、また逢おう。」
早耶香はそう言って、消えかけた右手で俺の涙を拭った。
もう早耶香の体は半分以上消えている。
彼女の頬に蝶が止まった。
「本当にありがとう。またね、春馬くん。」
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