エリート専務の献身愛
 てっきり、女性が好んで覚えるものだと思った。

 そこに、また女の子の会話が耳に届く。

「そうなの? 例えば?」
「有名なのだと、ギムレットとか。確か、〝長い別れ〟だったかなー」

 長い別れ……か。

 総とこういうお店に来ると、正直、今でも頭を過ってしまう。
 もう離れるしかないんだと思った、あの日の光景を。

「瑠依がシアトル行きを断った日、オレが最後に頼んだお酒はなんだったか……覚えている?」

 また、頭の中を見透かされたと思った。
 こんなタイミングで、苦い思い出の日を口に出されたから。

 ワイングラスを見つめ、手に取って小さく返した。

「……はい。ジプシーっていうものを頼んでた。ここのお店にはないみたいだけれど」

 懸命に笑顔を作った。
〝べつに今は幸せなんだから、大丈夫〟と思おうとすればするほど、あのときの感情に引きずられてしまって。

 忘れられなかった。あの日のことは今でも鮮明に残っていて、見聞きした記憶だけじゃなく、胸が押し潰されそうな毎日を思い出しただけで涙が出そう。

「覚えていたんだね。じゃあ、意味は?」

 込みあげてきていたものを堪えていて声が出ず、ただ無言で首を横に振った。

「そうか……」

 総はひとこと呟くだけ。
 少しの間、私たちの間に沈黙が流れる。

「え……あの、意味って」

 先に口火を切った。

 だって、今のでこの話、終わりじゃないよね……?
 お酒には詳しくない。でも、ジプシーという名前はずっと忘れずにいた。

 浅見さんの横顔を見つめる。

「口で言えなかったから、せめてなにかヒントを残したいと思って、咄嗟に選んだのがジプシーだった」

 彼はそう言って「ふっ」と苦笑する。

 ヒント? そんな意図があったなんて、まったく気づかなかった。
 今さらなのはわかっているけれど、ここまで知ってしまったら真実を知りたい。

 懇願するような眼差しを向け、総の口が開くのを待つ。すると、ゆっくり私を見て、薄っすら唇を開ける。

「しばしの別れ」

 目を剥いた私に、顔を傾け微笑み掛ける。

「実は、あのときから迎えに行くって、決めてた」
「……もう。そんなの、わかるわけない」
「そうだね。ちょっとキザすぎた。まぁ、あのときはかっこつけることなんか全然頭になくて、ただ必死だったんだけど」

 うっかり、ポロリとひと粒の涙をグラスに零す。

 聞けてよかった。
 今日からあの日のことは、きっといい思い出に変えられる。
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