迷彩男子の鈴木くんが、お嬢様の高町巫果さんに魔法を掛けるお話
何でも、ムチャ振り。
やる気か。マズイぞ。
何でもムチャ振りを受け入れると決めたものの、決意が揺らぐ。ヤンキー座りよりはマシだとも言えない。苦肉の策、「そうですね」差し出された彼女の手に、僕は真正面から手を重ねた。ズバリ握手である。
「まぁ、こんな感じでしょうか」
誤魔化されたと感じたのか、高町さんは、どこか不満そうに繋いだ手と僕を交互に見ている。
「これは、いつか意中の男性と成し遂げて下さい」
犬の散歩でたまたま通りがかった女性からは、奇異な目で見られた。
今までありがとう……これはまるで、そんなお別れの1シーンである。海で別れたカップルに早くもエントリー1番乗りだ。
砂浜をしばらくは無言で歩いた。僕達と同じような2ショットが程々に居る。この風の強さを狙ったサーファーを眺めて、波打ち際に寄った。
手も繋がず、腕も組まず、僕達はただただ、海を眺めて途方に暮れている。
「鈴木さんが、この景色をいつも以上に美しく見せている気がします」
「そんな魔法は使っていませんよ」
よく考えたら、最近、海なんてテレビでしか見ていない。音を聞いて、風を感じて、こうして自然の中に居るのは何年ぶりだろう。最後に見た海は3年前の日本海だ。もっと荒れすさんでいて……今日はやけに故郷を思いだす。故郷の温泉、もう何年も行っていないなぁ。
「鈴木さん」
風に紛れて、空耳かと思う程、小さな声だった。
「この〝夕陽を背景にキス〟というのが、普通は1番盛り上がるようです」
午後5時。雲のせいで、ロマンチックな夕陽には程遠い。
高町さんは本を閉じて、両手でその胸に抱えた。そして、目を閉じて。
波の音を、強い風を、僕はしばらく忘れた。
こういう状況でなければ、雰囲気にあてられて、キスぐらいしたかもしれない。
目を閉じた彼女は、まるで海に飛び込む覚悟を決めたみたいに、口元を震わせている。可愛いというより健気で切ない。うっかりキスぐらい、しそうになる。
僕は手のひらをジッと見た。人差し指と中指の指先……それを彼女の唇に触れようとして。こんな事でフザけて笑おうゼ、みたいな。そんな落とし所が、どう頭を働かせても自分で納得出来ない。僕は観念して手を降ろした。
「……普通は、その何ていうか」
そこで彼女は目を開いて、「唇ですね」と呟く。いくらお嬢様でも、そこまで物知らずではない。
「高町さんは、これもぜひ意中の人と成し遂げて下さい」
「はい」と返事が聞こえてくるまで、少々長く掛ったような気がした。
そこから近くのカフェを目指して歩く。歩く。歩く。
彼女は、とぼとぼと、ゆっくりと僕の後を付いてきた。狙ったカフェは人気の店で、日曜日はやっぱりというか混んでいる。いつかのように列に並んだ。
高町さんは行列の2ショットには目もくれず、ずっと雑誌に顔を埋めて、その目は虚ろにページをめくる。
団体客が去った途端、行列が解消。僕達は運好く、そとのテラス席に落ち着いた。少し寒くなって来たようで、高町さんはストールを肩に掛けて。
「鈴木さんも、一緒に入りますか」
雨避けとは違う。そういう訳にもいかない。「僕は平気です」
その代わりと言っては何だが、評判のカフェ飯と一緒に温かい飲み物を選んだ。
高町さんも倣って、同じものを。気のせいか、彼女の口数が急に少なくなったような気がする。かと思ったら、また雑誌をめくって、
「〝そして2人は海岸沿いのホテル〟とあります」
その占い雑誌。洗脳の範囲が広すぎやしないだろうか。
「これは、いつ予約をするのでしょう」
「高町さんはしなくていいです」
「では、お支払いは?」
「それも、高町さんはしなくていいです」
「ここまでカジュアルな場所をよく知らないのですが、服装はどう致しましょう。ドレスコードはあるんでしょうか」
高町さんは何も着なくていいです。最後だと思えばこれぐらい……言えるか!
「お部屋に入ったら、そこから先は」
案の定、やっぱり、そう来ますか。
ここで詳しく説明を求められるという、ある意味、地獄的な光景である。
「これは結婚後の事で、何というか。それは」
お嬢様って、どこまでご存じなのか。これはこれで興味津津である。
「つまりセックスですね」
その言葉、知ってた!?
唐突に飛び出した4文字に驚いて、僕は高町さんを2度見してしまう。殆ど、バビンスキー反応。ちょうどお水のお代りをよそった店員に、これまた奇異な目で見られてしまった。
「鈴木さん、私でも分かります。それぐらいは」
あれ?怒った?お嬢様が怒った?あんまり珍しくて、これまた2度見した。
「そういった事は、声に出すのを憚られるという事を、鈴木さんはご存じ無いのでしょうか。普通、こんな声に出して言う事じゃありません」
「お、仰る通りです」
思いがけず説教を喰らったけれど、言ったの、そっちですよ?
「鈴木さんは、その……そういうご経験はまだでしょう?」
お嬢様には、そこまで僕が幼稚に見えるのか。訊ねてくるその目は、何の疑いも無く、確信している。
はい、まだです……誤魔化してこの場を逃れたとしよう。高町さんの口から社長に伝わったら、そこから上杉部長にも即バレる。第5も林檎さんも一緒になってまたイジられる。返り討ち、ウソをついた事がバレたら高町さんに軽蔑されるんじゃないか。そっちの方が怖い気がして、僕は覚悟を決めた。
「高町さん、僕は26です。この年齢では経験済みが一般的です」
まるでゴキブリを見るような、とは言い過ぎか、彼女の目には苦痛が浮かんだ。
「つまり鈴木さんは、もう私とは世界が違う方なんですね」
言い得て妙だと思った。
「高町グループと我が社の格差に比べたら、そんな大した事じゃありませんよ」
急に線を引かれた気になったのか、高町さんは、またまた無口になる。すっかり冷めたロコモコを口に運び、紅茶を飲み干した。「失礼します」と言って車に乗り込むまで、ただの一言も発しない。
帰り道、車の中で彼女は眠ってしまった。占い雑誌を開いたまま。
チェックのストールにくるまって眠るその姿は、穢れを知らない夢見る少女。
ざっくり言って……普通に、可愛い女の子だった。
妹を気遣う兄のような。教え子を見守る担任教師のような。
世界中の切ない感情をかき集めてごちゃ混ぜにしたような感覚が襲ってくる。純粋に友達だと思えば、そこまで構えるというのも変かもしれない。
たまに驚かしてくれる。未だ僕の知らない意外な素顔がある。そう思うと、このまま会えなくなるというのも勿体ないような気がしてくる。健康ランドのシステムなんて、事前に僕が教えてやればいいだけの話だと……そうやって、ケジメを引き延ばそうとする。僕は、ズルい男の生き見本だ。
彼女の家の近く、というコンビニに車を止めた。店の明かりが眩しかったのか、そこで彼女は目が覚める。
「ごめんなさい。私うっかり」
「いいんですよ。隣に乗ってるだけでも疲れたでしょう」
「鈴木さん」
高町さんに熱っぽく見詰められている。
言うなら、今だ。
「あの、高町さん」
「おやすみなさい」
彼女は急いで車を出ると、足早にその場を後にした。あんまり素早く逃げられたので……まさか最後を告げようとした事に感付かれたのかと思った。バックミラーに高町さんの姿が映っている。手を振っているようなので、1度クラクションを鳴らして合図した。と思ったら、そこから血相変えて駆け寄ってくる。
「どうしました?忘れ物ですか」
彼女は開いたままの雑誌を握りしめ、目には涙を浮かべていた。様子が只事じゃない。僕はすぐに車から降りた。
「鈴木さんの言う通りでした。私には勇気が、覚悟がありません」
何かと思えば、
「ここに〝お別れのキス〟とあります。私は海で失敗しました。だから今も見ない振りをしてしまったのです」あぁー、と彼女は両手で顔を覆う。
「お、落ち着きましょう。高町さん、ここまでしなくていいですよ。シミュレーションとしては成功です。何度も言いますが、僕は彼氏じゃありません」
「いいえ、お願い致します。こんなの大した事じゃないと、私も1つ位は胸を張りたい」
「いや、これは大した事でしょう!」
彼女は雑誌をぎゅっと胸に抱き、心持ち顎を上げて目を閉じた。
勇気と覚悟。それはまるで、僕自身にも降り掛かってくるようだった。
こういう状況じゃなかったら……絶対キスした。
車体に隠れるように、僕は彼女の腕を引き寄せた。周囲に誰も居ない事を確かめながら、今日海でやろうとしたように、僕は指先で彼女の唇に触れる。
高町さんの頬が、見る見るうちに赤く染まった。首筋の遅れ毛が風に揺れながら、僕の指まで届いてくる。そこで彼女の足元がふらついた。「大丈夫ですか。足元に気を付けて」僕は思わずその肩に触れる。
「鈴木さんの仰る通りでした。とても、とても、大した事です」
だから言ったでしょう、と責められない。
「鈴木さん、これは……どうしてですか?」
彼女は激しく動揺して、とうとう泣き出してしまった。
「すみません」
いつだったか、謝罪に〝すみません〟は通用しない。〝ごめんなさい〟の方がマシだと、そう言われた事を思い出した。後悔しても遅い。悪戯された、からかわれた、と思われても仕方ない。バカにされたようにも感じた事だろう。
ズルいだけじゃない。僕は、酷い男だ。
そのまま1度も顔を上げる事無く、彼女は駆けだして。
最後のお別れも、ままならない。
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