迷彩男子の鈴木くんが、お嬢様の高町巫果さんに魔法を掛けるお話
適齢期という自覚がまるで無い。
月曜日。
朝一の会議では、先日の研修の反省会と、これからの予定や前準備、営業に回した案件の進捗などが議題に上がる。内容上、この会議には他の営業部からも何人か出席していた。どこの部署も、上杉部長から容赦ないダメ出し、涼しい沈黙、つけ上がるなという賞賛を浴びて、しばらくは立ち直れない。
会議の終了と共に、こうなったら林檎さんをイジって憂さを晴らそう……という囁きが聞こえたような、聞こえないような。
会議室には、僕と上杉部長の2人だけになった。部長が「あれ、どうなってんだ?」と言うだけで、「あぁ、あれですね」と頭に浮かぶようになるまで3年掛っている。これは成長なのか、それとも使われる側の哀しい性なのか。
部長はそこから内線、おそらく企画に繋いだ。
「これさ、専門外の奴らも居るから1つ1つ注釈を付けてよ。口頭でも説明するけど、手元に残るようにしたいから」
その言い方から察するに、相手は女の子だろう。
気のせいか。部長は林檎さんと付き合うようになってから、明らかに女性社員に対する態度が変わった。やけに奥ゆかしい。これはこれで、僕は背筋が寒くなる思いがする。受話器を置いた後、「言わなきゃ分かんないかな。察しろ。その可能性について想像力を働かせろ」と何故か僕に向かって愚痴るのだから。
上杉部長は、しばらく無言でパソコンに向かっていると思ったら「あれなんだけどさ」いきなり来た。これは身に覚えが無い。
恐る恐る、「何でしょう?」
「今度の運動会。高町んとこの」
来週の日曜日。都内の運動公園で開催が予定されている。来週に迫っている。
「うちから1人出す。おまえが行け」
「部長は?」
行く訳ないだろ、という明らかに拒絶の目である。かと思ったら、
「俺は高町と並んで来賓席に居る。気を抜いて他所に抜かれたら殺すぞ」
「手続きしとけ」と言われて、エントリーの案内を渡された。我が社は僕が声を掛けて人数を集めて……要するに、段取りと言う雑用だった。思わずため息をついたそこに、外線が告げられる。
『鈴木さんです。高町社長の妹さんから』
「わかりました。別室で取ります」
資料をまとめて小脇に抱えたら「まさか、あの妹に手出してないだろうな」
上杉部長から直で来た。あれだけで電話の相手が知れてしまうとは、鋭い。
「僕と高町さんは、純粋に友達です」
「なんだその反抗的な目は」と責めるフリで、部長の口元は怪しく歪んでいる。どこまで知ってる体でイジる気なのか。
「友達です」
そう言ってドアを開けようとした時である。
「俺は背中を押してやる訳にはいかない。ケツぐらいは叩いてやろうか」
つまり、戦え……そう言われた気がした。
「いくら叩かれても、僕なんか、もともと勝負する立場にありません」
部長の前でうっかり〝なんか〟とNGワードが出てしまった。少々たじろぐ。
「おまえは手に負えない〝自分好き〝だ。適齢期という自覚がまるで無い」
「そういう部長はどうなんですか。しっかり適齢期でしょう。僕なんかより、自分好きが少々長いような気がしますが。林檎さんだって適齢期です。すぐ結婚したいと思ってるんじゃないですか」
嫌味が止まらない。これほど部長に挑戦的になるのは初めての事である。
「それならやる。俺が本気だしたら明日にでも」
「またまた」
「そうなると、少なくとも一週間分の仕事はキャンセルだ。リーダー研修は途中のまま放り出す。企画会議は全部おまえが出ろ。報告は要らない。俺は責任が持てない。しっかりやれよ」
鈴木の仕事は倍になる。あるいは暇になる。そのうち恐らく異動になる。
すらすらと続いた。「げ……」いかにも予言通りになりそうだから怖い。
「俺の信用株は大暴落だな」と、部長はそこで少々、真顔になる。
「それでも、あっちが結婚したくて絶望的だというなら、俺はやるしかない」
実情、林檎さんは今そういう雰囲気でもなかった。教育課に変わってバタバタしている。そして、彼氏いない歴28年に終止符を打ち、今やっと恋人同士の甘い時間を楽しんでいるのだ。今すぐの結婚を絶望するほど望んではいない。
「女を待たせるなよ」
それは背中で聞いた。何かを疑われて逃げ出すみたいに、僕は会議室を後にする。そこからまた別の一角に入って外線を拾った。ここなら誰にも聞かれない。
「お待たせしました」
部長と随分話し込んでしまった。
『先日は、ありがとうございました』
「いえ、こちらこそ。色々と申し訳ございません」
謝罪を一括り。彼女に対して、僕はそれ以外に言葉を持たない。
彼女とはあの日が最後だと……それは僕だけの思い込みだったのか。
意外にも、受話器から聞こえてくる彼女の声は明るい。まるで、こないだの事なんか無かったみたいに。
『あの、健康ランドの件ですが、無料券が手に入ったので、ぜひ鈴木さんも。ストーン・サウナに2人で行くといいよってエリカも言いました』
もう僕の顔なんか見たくない筈だ、と思っていたのに。
「高町さん」
ここでケジメをつけよう……と思ったものの、これは電話なんかで済ませていい事だろうか。「すみません、これから会議なので」と僕は逃げた。
『では、この次はいつ会えますか』
「それは、しばらくは会えません。出張なので」
彼女は『そうですか』と呟いて『お仕事中、お邪魔して申し訳ございませんでした』そんな言葉の端々から、残念、失望、逡巡が伝わって来る。
結論から言って、出張など無かった。僕はウソをついた。今は時間が欲しいと思う。彼女が冷静になる時間、僕の準備、覚悟が決まる時間が。
そこで電話は切れた。
そしてその夜……僕は高町家からお呼び出しを喰らう事になる。
朝一の会議では、先日の研修の反省会と、これからの予定や前準備、営業に回した案件の進捗などが議題に上がる。内容上、この会議には他の営業部からも何人か出席していた。どこの部署も、上杉部長から容赦ないダメ出し、涼しい沈黙、つけ上がるなという賞賛を浴びて、しばらくは立ち直れない。
会議の終了と共に、こうなったら林檎さんをイジって憂さを晴らそう……という囁きが聞こえたような、聞こえないような。
会議室には、僕と上杉部長の2人だけになった。部長が「あれ、どうなってんだ?」と言うだけで、「あぁ、あれですね」と頭に浮かぶようになるまで3年掛っている。これは成長なのか、それとも使われる側の哀しい性なのか。
部長はそこから内線、おそらく企画に繋いだ。
「これさ、専門外の奴らも居るから1つ1つ注釈を付けてよ。口頭でも説明するけど、手元に残るようにしたいから」
その言い方から察するに、相手は女の子だろう。
気のせいか。部長は林檎さんと付き合うようになってから、明らかに女性社員に対する態度が変わった。やけに奥ゆかしい。これはこれで、僕は背筋が寒くなる思いがする。受話器を置いた後、「言わなきゃ分かんないかな。察しろ。その可能性について想像力を働かせろ」と何故か僕に向かって愚痴るのだから。
上杉部長は、しばらく無言でパソコンに向かっていると思ったら「あれなんだけどさ」いきなり来た。これは身に覚えが無い。
恐る恐る、「何でしょう?」
「今度の運動会。高町んとこの」
来週の日曜日。都内の運動公園で開催が予定されている。来週に迫っている。
「うちから1人出す。おまえが行け」
「部長は?」
行く訳ないだろ、という明らかに拒絶の目である。かと思ったら、
「俺は高町と並んで来賓席に居る。気を抜いて他所に抜かれたら殺すぞ」
「手続きしとけ」と言われて、エントリーの案内を渡された。我が社は僕が声を掛けて人数を集めて……要するに、段取りと言う雑用だった。思わずため息をついたそこに、外線が告げられる。
『鈴木さんです。高町社長の妹さんから』
「わかりました。別室で取ります」
資料をまとめて小脇に抱えたら「まさか、あの妹に手出してないだろうな」
上杉部長から直で来た。あれだけで電話の相手が知れてしまうとは、鋭い。
「僕と高町さんは、純粋に友達です」
「なんだその反抗的な目は」と責めるフリで、部長の口元は怪しく歪んでいる。どこまで知ってる体でイジる気なのか。
「友達です」
そう言ってドアを開けようとした時である。
「俺は背中を押してやる訳にはいかない。ケツぐらいは叩いてやろうか」
つまり、戦え……そう言われた気がした。
「いくら叩かれても、僕なんか、もともと勝負する立場にありません」
部長の前でうっかり〝なんか〟とNGワードが出てしまった。少々たじろぐ。
「おまえは手に負えない〝自分好き〝だ。適齢期という自覚がまるで無い」
「そういう部長はどうなんですか。しっかり適齢期でしょう。僕なんかより、自分好きが少々長いような気がしますが。林檎さんだって適齢期です。すぐ結婚したいと思ってるんじゃないですか」
嫌味が止まらない。これほど部長に挑戦的になるのは初めての事である。
「それならやる。俺が本気だしたら明日にでも」
「またまた」
「そうなると、少なくとも一週間分の仕事はキャンセルだ。リーダー研修は途中のまま放り出す。企画会議は全部おまえが出ろ。報告は要らない。俺は責任が持てない。しっかりやれよ」
鈴木の仕事は倍になる。あるいは暇になる。そのうち恐らく異動になる。
すらすらと続いた。「げ……」いかにも予言通りになりそうだから怖い。
「俺の信用株は大暴落だな」と、部長はそこで少々、真顔になる。
「それでも、あっちが結婚したくて絶望的だというなら、俺はやるしかない」
実情、林檎さんは今そういう雰囲気でもなかった。教育課に変わってバタバタしている。そして、彼氏いない歴28年に終止符を打ち、今やっと恋人同士の甘い時間を楽しんでいるのだ。今すぐの結婚を絶望するほど望んではいない。
「女を待たせるなよ」
それは背中で聞いた。何かを疑われて逃げ出すみたいに、僕は会議室を後にする。そこからまた別の一角に入って外線を拾った。ここなら誰にも聞かれない。
「お待たせしました」
部長と随分話し込んでしまった。
『先日は、ありがとうございました』
「いえ、こちらこそ。色々と申し訳ございません」
謝罪を一括り。彼女に対して、僕はそれ以外に言葉を持たない。
彼女とはあの日が最後だと……それは僕だけの思い込みだったのか。
意外にも、受話器から聞こえてくる彼女の声は明るい。まるで、こないだの事なんか無かったみたいに。
『あの、健康ランドの件ですが、無料券が手に入ったので、ぜひ鈴木さんも。ストーン・サウナに2人で行くといいよってエリカも言いました』
もう僕の顔なんか見たくない筈だ、と思っていたのに。
「高町さん」
ここでケジメをつけよう……と思ったものの、これは電話なんかで済ませていい事だろうか。「すみません、これから会議なので」と僕は逃げた。
『では、この次はいつ会えますか』
「それは、しばらくは会えません。出張なので」
彼女は『そうですか』と呟いて『お仕事中、お邪魔して申し訳ございませんでした』そんな言葉の端々から、残念、失望、逡巡が伝わって来る。
結論から言って、出張など無かった。僕はウソをついた。今は時間が欲しいと思う。彼女が冷静になる時間、僕の準備、覚悟が決まる時間が。
そこで電話は切れた。
そしてその夜……僕は高町家からお呼び出しを喰らう事になる。