猫かぶりな伯爵の灰かぶりな花嫁
一歩足を踏み入れた途端、あの薔薇の香りに包まれる。外気の遮られている温室内は仄かに暖かく感じた。

「僕は作業をしていますから、適当に見ていってください」

セオドールは両手に桶を持ち、温室内に設えた井戸へ向かう。すかさず、主夫妻にあてられどおしのマリが手伝いを買って出る。
グレースも申し出てみたのだが、背後に立つラルドの渋い顔を見たセオドールに断られてしまった。

花の咲いている一帯に立つと、酔いそうなくらい濃い香りがグレースを取り巻く。自分が薔薇になった気分だ。
もしここにある薔薇が、全部花をつけたらどうなってしまうのか。度を過ぎるのも考えものである。小さな堅い蕾をつけた株たちに目を向け、無意識に小さくため息を吐いてしまった。

それを見咎めたラルドが、片方だけ口の端を上げて皮肉る。

「おや、ため息などと。薔薇は嫌いでしたか?あれだけ大騒ぎしてやってきたというのに」

「別に嫌いなわけじゃないのよ。ただ、ここへ来てからなんだか薔薇尽くしで。こんなに同じ香りを毎日のように嗅いでいたら、飽きてしま……わないわね」

辺りに満ちる薔薇の香りを縫って届く、甘酸っぱい爽やかな香りはラルドのもの。白薔薇館に滞在している間、一日中一緒にいてもグレースがこの香りを邪魔だと思ったことはなかった。

バチンバチンと、優雅な香りとは正反対の無粋な音が響く。何事かと目を向ければ、セオドールが薔薇の枝を切っていた。それも花の付いたものばかり。
それらの棘を丁寧に取り除いてひとつの花束にまとめると、グレースに手渡した。

「夫の目の前で花を渡すとは、いい度胸だ」

「そんな命知らずなことはしませんよ。――これから、丘に行かれるのでしょう?」

瑞々しい花びらに見とれていたグレースが、はっと顔を上げる。王都に帰る前にもう一度、ロザリーたちの墓へ寄りたいと伝えてあった。セオドールは墓碑に手向ける花束を作ってくれたのだ。

「ありがとう」

「では、参りましょうか。姫」

仰々しくラルドが手を差し伸べてくる。

「足元にお気をつけて」

温室に残るセオドールとマリに見送られ、丘の上へと続く小道をグレースはラルドと手を繋いで歩き始めた。

雨に濡れた登り坂は、十分に準備をしてきたつもりでも先日のようには足が進まない。だが、言葉少なにふたりでゆっくりと歩くこの時間さえ無性に愛おしく感じていた。
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