猫かぶりな伯爵の灰かぶりな花嫁


まだ夜明け前だというのに、ヘルゼント伯爵の屋敷には煌々と灯りが点され、使用人たちが動き回っている。だがほとんどは、なにをすればよいのかもわからないが、とりあえずじっとしてはいられないという者たちだ。

そのひとりに、この屋敷の主であるラルドも混じっていた。

「旦那様、少し休まれては?まだ刻がかかりましょう」

厚い樫の木の扉の前で聞き耳を立てていても、室内の様子は窺えない。うろうろと落ち着きなく行ったり来たりを繰り返して、もうどれくらい経ったのか。

「まさか、死んでしまうなんてことは……」

「滅多なことをおっしゃいますな」

父親より年上の執事にぴしゃりと叱責されて、口をつぐむ。それでもラルドの不安は拭いきれなかった。

グレースの陣痛が始まったのは前日の夕方だ。もうすぐ夜が明ける時刻になっても、まだ産声は聞こえてこない。妻と子が命がけで出産に臨んでいるというのに、父親である自分は祈ることくらいしかできないのがもどかしかった。

とにかく母子ともに無事に産まれてくれ。昇り始めた朝日に向け手を組む。

廊下の窓から見える濃紺の空が白み、橙色が広がっていく。ほんの一時だけその美しさに目を奪われていた、次の瞬間。固く閉ざされていた扉が動いて意識を戻す。

「お産まれになりました。元気なお嬢様です」

ドーラの知らせを聞き、廊下に安堵のため息が響く。ラルドは太陽が全貌を現すまで、窓の外を見続けていた。
< 121 / 126 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop