猫かぶりな伯爵の灰かぶりな花嫁
頭を抱えてジムを避けようとしていた男が、安堵と困惑のこもるため息とともに姿勢を戻した。

「その猫は、どうしても僕が嫌いみたいだね」

簡素な上下に室内用の外衣を羽織っただけのラルドが、額に張り付いていた前髪を気怠げにかき上げる。

「だ、旦那様!」

マリはまだ隙あらば鋭い爪を向けようとしているジムを、逃がさないようしっかりと抱え直す。ほんの少しでも腕の力を緩めたら、今にも飛び出しそうに興奮していた。

「静かに。ドーラが起きてきてしまうよ」

驚きであんぐりと開いた口が、揃えたラルドの長い指で押さえられる。
落ち着いて周囲に目をこらせば、猫を追っているうちに、主人夫婦の私室前まで辿り着いていたらしい。
その隣室には、侍女頭であるドーラが控えているはずだ。

「申し訳ありませんっ!えっと、その……。ジム様は男の人が苦手なんです」

「そう?夕方、嬉しそうに料理長から肉をもらっているところを見かけたけれど」

ラルドは訝しげに首を傾けた。

この家の主に嫌われては、下手をするとグレースと離ればなれにさせられてしまうかもしれない。

「あ、あの!もしかしたら、旦那様からするカモミールの香りのせいかも……」

尻すぼみになった苦しい言い訳に、ラルドは自身の身体をくんくんと嗅いでみせる。

「おかしいな。いまはグレースの匂いがするはずなんだけど」

いたずらに口角を上げて笑う彼からは、今は薔薇の香りが漂う。マリは言葉の意味に気づいて赤くなった顔を俯けた。

薄暗い床を見下ろした視線の端が、違和感のある赤いものを捉える。

なんだろう?と疑問を抱く前にラルドも気づいたらしく、先にそれを拾い上げられてしまった。
途端に、持ち上げた彼の手から『赤』がひらひらと零れ落ち、その正体を知る。

「それはグレース様が国王様から賜った……」

くたりと茎が萎れたヒナゲシには、もう一枚の花びらがかろうじて残っているだけだった。
床に散らばる残りの花びらを、屈んだラルドが慎重な手つきですべて拾い、大きな手のひらに乗せる。

「陛下がこれを?」

美しく整えられたグレースの髪に、些か不格好に添えられていた素朴な花。
なにかを思案するように、ラルドは自分の手の中に目を落としている。

「すみません、片付けておきます」

無残な姿になってしまったヒナゲシを引き取ろうとしたが、首を横に振った主人に断られた。

「――散らしてしまったな」

口元に儚げな笑みを残して歩き出したラルドの背中は、廊下奥の書斎に消えていった。
< 124 / 126 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop