猫かぶりな伯爵の灰かぶりな花嫁


その翌日。自室でジムの毛を梳いていたグレースは、何者かが廊下を走る音で手を止めた。予想通り、少々騒がしげに扉が開かれる。その音でぴくっと黒猫がヒゲを動かした。

「行儀が悪いわよ、マリ」

膝の上のジムの背を撫で落ち着かせると、彼は再びうっとりと金色の瞳を閉じる。

「申し訳、ありません!ですが……」

マリは胸に手をあて息を整えてから、真っ直ぐ背を伸ばす。

「ヘルゼント伯爵家から、婚約の品が続々と届けられておりまして」

「なんですって!?」

膝の上の存在を忘れ椅子から立ち上がってしまったため、ジムがドスンと床に落ちて抗議の鳴き声を上げた。自分が猫だという自覚はないらしい。

「それから「本日の午後に伯爵がご挨拶に伺いたい」とお使いの方が」

「断ってちょうだい!」

こんなに早く彼が行動するとは予想外だ。この縁談はまだ正式なものではなかったはず。ラルドとは日を改めて話し合うつもりが、後れを取ってしまった。

「それが……」

グレースの語気に首をすくめたマリが、もじもじと両手を揉みながら申し出る。

「キャロル様が、すでに承諾のお返事をなさってしまいまして」

ぼそぼそとした話の途中から、グレースは扉に向かって歩き始めていた。母にもまだ、昨日の件を伝えていなかったのだ。娘の婚期が大幅に遅れていることを日頃から嘆いている彼女は、嬉々として伯爵家からの使者を受け入れたに違いない。

自分の吞気さを呪う。何の後ろ盾もない三十歳間近の行き遅れた姫など、喜んでもらう相手などいないと高をくくっていたせいだ。

血相を変えて出て行く主を追おうとしたジムが、鼻先で扉を閉められ樫の木扉を引っ掻く音が聞こえたが、今はそれどころではない。グレースは応接の間へと急ぐ。
だが時すでに遅し。奇妙な香りの漂う応接間では、キャロルが香茶の給仕を受けているところだった。

「母さまっ!」

作法も無視して駆け寄る。

「なにをそんなに慌てているの?」

「慌てるわよ、こんな急に」

「急ではないわ。あと十年早くてもよかったくらい」

キャロルは注がれた香茶を一口飲んで、目を丸くした。

「あら、思ったより飲みやすいのね。腰痛に効くといって、伯爵が一緒に届けてくれたものなのよ」

この鼻の奥がスッとするような嗅ぎ慣れない匂いは、ヘルゼント家から届けられた香茶のものだったらしい。まったく、昨日の今日でよく気の利くことだ。
卓上に置かれた書簡の装飾文字に目を落とす。訪問の知らせといい、香茶といい、まるでこうなることを予想していたように仕事が早い。

グレースは、整いすぎて冷たくも感じる隙のないラルドの微笑を思い出す。彼ならば、これくらい造作もなくやってのけるのだろう。

諦めの嘆息を吐き出すと、届けられた宝石や高級生地の扱いに右往左往する使用人たちに向け、来客準備の指示を出した。

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