猫かぶりな伯爵の灰かぶりな花嫁
式は太陽の間で執り行われた。

ごく親しい人々が見守る中、新婦は神殿で保管されている夫となる家の系譜に自分の名を書き込み、新郎は妻の家からその名を除く。ただそれだけの儀式だ。それなのに羽根ペンを持つグレースの手は、羊皮紙の上で震えてしまう。隣に立つ正装のラルドの口の端が僅か上がっていたが、それを見咎める余裕が今の彼女にはなかった。

「……お止めになりますか」

グレースにだけ聞こえるように小声で囁かれ振り仰ぐと、自分を見下ろす青い瞳とぶつかり、グレースはペンを握り直す。唇を引き結んで、連綿と続くヘルゼント家の代々の名が記された羊皮紙に再び向かい合う。

「止めるわけ、ないじゃない」

己に言い聞かすように呟きを落として意を決し、ラルドの隣に自分の名前を書き入れた。


滞りなく済んだ式の後は、城下にあるヘルゼント伯爵邸での祝宴へと舞台は移る。
当人たちがいくら地味に質素にと願ったところで、そこは曲がりなりにも王女と今をときめく伯爵の結婚祝いの席である。親交のある貴族や富豪などが駆けつけ、華やかで賑やかな宴が繰り広げられていた。

入れ替わり立ち替わり挨拶にくる客たち。そのほとんどは伯爵家と繋がりがある者ばかりで、グレースにはとても一度では顔と名前を覚えられる自信がない。

それでもやらなければ……。

人々に囲まれ祝辞を受けているラルドに視線を向けた。

光沢のある灰青の地に金と銀の糸をふんだんに使って草花が刺繍された上下の衣装は、ひと月の間で誂えたとは思えない。袖口などについた金の飾りボタンのひとつひとつにも伯爵家の紋が刻印されていて見事なものだ。
そしてなにより、豪華な衣装にも負けない輝きを放つ優美な顔立ちに堂々とした態度。慣れたはずのグレースでも、気を抜くと見とれてしまいそうになる。

朝からほとんど飲まず食わずの上での気疲れに、際限なく疲労が溜まっていく。

「グレース様。いかがですか」

主の周囲から人が途切れたのを見計らい、気を利かせたマリが料理や酒を勧めてくれる。だが心身共に苦しくて、気付け代わりに葡萄酒を一口含むだけに留まった。

夕刻も近くなり、人の出入りもいくらか落ち着いたようだ。思い返してみれば、朝から一日一緒にいるのに、まだラルドとまともな会話をしていない。グレースは、今日夫となったばかりの彼を探すが、ぐるりと見渡した広間の中にその姿はみつからなかった。

ついてこようとするマリに断りをいれ、グレースは秋の庭に出てみる。ひんやりと澄んだ空気が、人いきれに酔っていた彼女には心地好く感じられた。
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