猫かぶりな伯爵の灰かぶりな花嫁
伯爵の屋敷の使用人たちは優秀だ。室内はもちろん、屋敷周りの手入れまで完璧に行っている。だからグレースが、キャロルのように掃除や草むしりをする必要などまったくない。

窓際の長椅子に腰掛け、膝にのせ撫でていたジムの背に長い嘆息を落とした。換毛期のせいか、抜けた黒い毛がふわふわと辺りを漂い床に落ちていく。その片付けさえ、彼女がしようとすると渋い顔をされるのだ。

本は読んでも内容が頭に入ってきそうもない。刺繍は針を指に刺しそうだ。
グレースは、胸の内で渦巻く感情を発散させる方法を考えあぐねていた。

もしかしたら母は、自分の思い及ばないなにかをため込んだときに、あのような行動をしていたのかもしれない。
キャロルがよくしていたことを思い返してみて、ハッと閃く。

「マリ。着替えを手伝ってちょうだい」

すっくと立ち上がったグレースに、膝から下ろされたジムが不服を申し立てていた。


「邪魔はしないから、隅の方で作業をさせて」

正餐の支度に忙しい厨房で、猫の毛がついた服から着替え前掛けをしたグレースは、料理長に無理難題を突き付けていた。
彼は、付き添ってきたマリや、騒ぎを聞きつけ飛んできたドーラに助けを求める。ところがマリだけでなく、この数ヶ月の間にグレースが少々変わり者の姫だということを悟ったドーラも、これくらいで引くような彼女ではない、と諦めの境地だ。

「仕方がありません。どうか、怪我にだけは十分お気をつけなさってください」

奥方を使用人の領域である厨房に入れた上に怪我をさせたとあっては、自分のクビが危うい。

「ありがとう!大丈夫よ、王城の館ではときどきやっていたから」

喜色を浮かべグレースは渋々ながらに折れた料理長に礼を言うが、周囲は王女が厨房に出入りしていたことに驚きを隠せなかった。

グレースは袖まくりをし、さっそく作業台の片隅を陣取る。伯爵家の厨房だけあって、食材は豊富に揃っていた。

粉や卵などを分けてもらい無心で捏ねる。生地の混ざり具合や微妙な柔らかさを調整しなくてはならないので、余計なこと――例えばマクフェイル男爵夫人やその腹にいる子ども、そしてラルドのこと――などを考えずに済む。

母もきっと、言葉にはできない思いを生地に練り込んで消化していたのではないか。図らずも妻となり、グレースはようやく、複雑な立場のキャロルが抱えていたものの片鱗を理解できた気がした。

そんな鬱屈とした想いが詰まっていたかもしれないお菓子も、できあがりは甘く美味しいものになっていたけれど……。

オーブンをひとつ占領し、平らにのばして切り分けた生地を火にかける。薪で火加減を調節している姿に、料理人たちは自分たちの仕事場に踏み込んできたということも忘れて感心していた。

火の傍にいる暖かさと懐かしい甘く香ばしい香りが眠気を誘う。椅子を置いて焼き具合と火の番をしていたグレースが、ゆっくりと船をこぎ出したのにマリが気づいた。

「あとはわたしが見ていますから、少しお休みになっては?」

「いいえ、大丈夫よ」

声をかけられ束の間は目を開いているが、すぐにうつらうつらとし始める。
やがて、背もたれに重ねた手の上に頬を預けて寝入ってしまった。
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