猫かぶりな伯爵の灰かぶりな花嫁
まだ外が明るいうちにラルドが帰宅するのは、ずいぶんと久しぶりのことだ。車寄せに馬車を乗り付けた主を、いつもは冷静沈着な執事が慌てた様子で出迎えた。

「グレースの具合が悪いと聞いたのだが」

開口一番に訊いた主人に、この家で己が把握していないことはないと自負する執事は不思議そうな顔をする。

「そのようなお話は伺っておりませんが……」

かわりに眉を下げ報告した。

「しかしながら、少しばかり困ったことになっておりまして」

「なにがあった」

彼の手に余る事態など、そうあるものではない。不審で顔を険しくするラルドを、執事は普段主が足を踏み入れることはない屋敷の裏方へと案内する。
晩餐の準備の芳しい香りに、焦げたような匂いが混じって漂う厨房。

「どうしたものかと……」

めったなことでは動じないヘルゼント家の老執事は、困惑げに厨房の奥を示す。果たしてそこには、粗末な木の椅子にもたれかかって熟睡している妻の姿があった。

「も、申し訳ありませんっ!いちおうはお止めしたのですが」

マリが目尻に涙を浮かべて謝罪する。グレースの目が覚めるより早くラルドが帰ってくるとは思わなかったのだろう。

「別に怒ってなどいない。いろいろと呆れてはいるけどね」

「起きていただこうかと思ったのですが、その……」

ドーラまでもが複雑な顔でため息を零す。不自然な格好ながらも、笑みを湛えた寝顔は至極安らかだ。これでは、起こしてしまうのが忍びなく思うのも無理はない。

「お部屋までお運びしようとしたのですが、若い者たちには恐れ多いと軒並みに断られまして。ならば私めが、と名乗を上げたところ周りに止められた次第でございます」

それは正解だ。ラルドは、肩を叩いて彼の意気込みだけを評価してやった。いくら抱えるのが細身の女性だとは言え、齢六十を超える彼にそんなことをさせたら、双方が怪我を負いかねない。

「迷惑をかけたようだな。すまなかった。僕が連れて行くから、皆は仕事に戻ってくれ」

起こさないよう慎重に抱え上げ、寝室へとグレースを連れて行くことにした。

それにしてもずいぶんと穏やかな寝顔である。思えばいつも、自分は彼女が眉間にシワを寄せている顔ばかり見ているような気がした。隣で寝ているときでさえ、その表情には苦悶が浮かんでいる。

その原因はラルド自身にあるのだと思い至れば、自嘲せずにはいられなかった。
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