猫かぶりな伯爵の灰かぶりな花嫁
さすがに階段を上るには、いささか苦心する。途中で抱え直した拍子に、彼女の睫毛が揺れ瞼が開いてしまう。初めのうちは焦点の合っていなかった緑の眼が、ラルドの顔を見留めると大きく見開かれた。

「え、なんでラルドが?やだ、降ろしてちょうだい」

「妙なところで寝てしまう貴女がいけないのですよ?一緒に階段を転げ落ちたくなかったら、暴れないでもらえますか」

腕の中でジタバタとしていたグレースの動きが止まる。この長い階段から落ちてラルドの母が亡くなったことは、この屋敷を彼女が初めて訪れたときに詳細を省いて説明済みだ。

身体が静かになったと思ったら、今度は口が活動を始める。

「今日はずいぶんと帰りが早いじゃない。まだ夕食の前……よね?」

自分がどのくらいの時間寝入っていたのかに自信がなくなったのか、語尾が小さくなっていく。

「まさか妻に厨房で出迎えられるとは思いませんでしたが。あまり彼らを困らせないでもらえますか。当家の使用人たちは、まだ貴女の突飛な行動に耐性がないのですから」

ラルドが嫌みで釘を刺せば、伯爵夫人らしからぬ振る舞いだったという自覚はあるらしく、ついには口もおとなしくなった。
そわそわしながらついてきていたマリが開けた扉を次々とくぐり、寝台にグレースを降ろす。

「僕は、小さな子どもではなく妻を迎えたつもりなんですがね」

苦笑いで言いながらも、ラルド自身は父親に抱きかかえられ、寝室まで連れていってもらった記憶などない。物心ついたころにはすでに病床にいた国王が父だったグレースとて、それは同じだろう。

互いに『普通の家族』などというものを知らない同士だ。

「そうだわ。オーブンの中っ!?」

作製途中だった焼き菓子を思い出し、立ち上がりかけたグレースの肩をそっと押し止めるラルドの背後から、「あの……」とか細い声がする。

「それは、わたしが取り出してあります。けど、お持ちしますか?」

歯切れの悪いマリの言葉にグレースが頷くと、彼女は心持ち引きつった笑いで応えて寝室から出ていった。

「さて」

寝台の縁に並んで腰掛ける。身体を斜めにしてグレースに向き合うと、あからさまに身を引かれた。

「な、なにをするつもり?こんな明るいうちから」

「失礼ですね。人を盛りのついた獣みたいに言わないでください」

隣の部屋からジムが扉を引っ掻く音と不満げな鳴き声が聞こえてきたが、ラルドは無視をし続ける。グレースがしきりに向こう側の彼を気にしても、しっかり手を掴み寝台から離さなかった。
< 60 / 126 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop