猫かぶりな伯爵の灰かぶりな花嫁
一段ずつ静かに昇り辿り着いた先は、灯りのない暗闇。風の動きを頼りに手探りで進むと、細く扉の開いた小部屋のようなものがある。夜風と鳴き声は、そこから流れてきていた。
思い切って入ったそこは物置部屋で、使われていない家具や備品類が置かれているのが、風に揺れギシギシと音を立てている小窓から差し込む月明かりで見てとれる。

誰かが締め忘れたのだろうか。
グレースは窓に近づき身を乗り出す。今夜は満月だったようで、表は思ったよりも明るかった。

「ジム。いるの?」

小声で呼ぶ声に、「にゃあ」と確かな返事が返ってくる。グレースが見回した屋根の上に、金色の瞳をみつけた。この窓から外に出ておきながら動けなくなったらしい。
立って歩くのは難しそうな勾配にグレースも一瞬尻込みするが、彼をこのままにしておくわけにはいかない。椅子を踏み台にして、自身も小窓から外に出る。

這いつくばるようにしてゆっくりと屋根を伝う。そんな彼女の不格好な姿をジムは吞気に眺め、長い尻尾を左右にゆらゆらと振り「早く迎えに来い」といわんばかりに大きくあくびをしていた。

やっと彼の元に着いたグレースの胸元めがけ、ジムは飛びついてくる。それを屋根に腰をついた状態で、どうにかこうにか受け止めた。

「危ないでしょう」

安堵のため息とともに小言を零すが、腕の中でごろごろと喉を鳴らされてはそれ以上怒る気にはなれない。顎下を撫でてやりながら屋根に座って見上げた夜空に、ジムの瞳と同じ色の丸い月が浮かぶ。

「いい加減、認めないといけないのかしらね」

いま聞いているのはジムと天空の月だけ。柔らかな月光と夜の帳に包まれて、思わず彼女から本音が漏れ出していた。

自分は『誰か』の一番になりたかったのではない、『彼』の一番になりたかったのだ。きっと、薔薇園で初めて会ったときから、ずっと。太陽神のような彼に、自分という存在を認められることを望んでいたのだ、と。

だけどグレースは、自分がラルドの『満月』にはなれないことを知っていた。彼の心の中には、永遠に輝き続ける月がある。それは誰にも取って代わることはできない。

初めての夜、ラルドはグレースにほかの誰かを想いながら抱かれても構わないと言った。だが、ほかならぬラルド自身が女たちを、彼女の代わりにしているのではないのか。

たったひとりの人を愛し続けられる人をみつけたのに、そのたったひとりの人に自分はなれない。なんと皮肉な話だろう。

所詮、政略結婚などとはそんなもの。いっそ、二番でも三番でも構わないと腹を括れるのならどんなに楽か。グレースは己の頑なな心が恨めしく、唇を噛んだ。

不意に地上が賑やかになる。蹄と角灯の灯りを揺らす馬車の車輪の音が近づいてきていた。

「……こんな時間に帰ってきたの?」

夫の帰宅に驚き、重たいジムを片手で抱え、もう片方の手で身体を支えながら屋根を這う。下は主を出迎えるために増えた灯りで明るくなっていた。
不安定な体勢をしているグレースから肩掛けが外れ、屋根の傾斜を滑っていく。毛織りのそれは、空気を孕みながらゆっくりと到着した馬車の前に落ちていった。
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