猫かぶりな伯爵の灰かぶりな花嫁
グレースの頬を少し湿り気のある温かいものがつつく。もう片方の頬に触れる感触は肌触りのよい布のようだ。身体の沈み具合からいっても、自分が寝台で横になっているのだと、薄ぼんやりする頭でも理解できる。

だとしたらこれはなんだろう……?

ゆっくりと瞼を持ち上げたグレースは、目の前に菫色のまん丸い宝石をふたつみつけた。

「あっ、ライラ!いけません!!」

叱る声でグレースは完全に覚醒する。宝石だと思ったものは、自分の顔を覗き込んでいた幼子の大きな瞳だったのだ。

「申し訳ありません。起こしてしまいましたか?」

仄暗い部屋の中、軽々と子どもを抱き上げたのは顔も名も知らない女性。清潔な前掛けをつけている格好からして使用人のようだ。
見覚えがないのは彼女だけではない。ゆっくり身を起こしたグレースの目に入るものは、すべて初めて見るものばかりだった。紗幕の垂れる広い寝台も、薄暮に染まる空が覗く窓も。

「……ここ、は?」

出した声が喉に詰まる。グレースは、自分がずいぶん長いこと水分を摂っていないことに気がついた。

「白薔薇館です、グレース様。私は夫と一緒に、伯爵からここの管理を任されているコニーと申します。これは娘のライラ」

コニーは腕から下ろして立たせた娘に挨拶を促す。まだ足取りも不安定な子どもが、ちょこんと小さな身体に対して重たい頭を下げた。

「かわいい。よろしくね、ライラ」

思わず言葉と笑みを漏らしたグレースに、水差しから汲んだ水が差し出される。それを受け取りひと息に飲み干して、ようやく人心地がついた。

「よろしければ、夕食前にお茶のご用意をしますが。談話室まで下りられますか。それともこちらにお持ちしましょうか」

グレースはライラの小さな手を引かれて寝台から下りる。コニーが次々と点けていく燭台の灯りに照らし出された部屋は、客室というよりも、つい今し方まで住人がいた居室といったふうに整えられており違和感を覚えた。使用人以外で、この館に住む伯爵家に縁のある者はいないはずだった。

「この部屋はだれかが使っているの?」

室内に過度な華やかさこそないものの、年代を感じる調度品は丁寧に手入れされている。グレースが伯爵邸であてがわれた私室に比べこぢんまりと纏められているが、それがかえって実家を思い起こさせ居心地がいい。
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